Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

沖縄タイムス『基地で働く 軍作業員の戦後』書評|戦後の沖縄を生きるということ

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 沖縄タイムス編。米軍占領下に基地で働いていた人たちの聞き書きを83人分集めている。「はじめに」にあるように、編集意図は明確。「沖縄戦後史の空白を埋めることができるのではないか」という考えのもと、それを基地の内側から見つめ直そうというのである。

 実際、本書は基地労働者たちの語りから、「証言」や「告発」としての効果を十分に引き出している。その意義については、第6章の「シンポジウム」や「記者座談会」で語られているので、ここでは特に繰り返さない。「戦後の沖縄で米軍は何をしていたのか?」という問いに対し、沈黙によって守られてきた歴史の死角を撃っている。

 

 『沖縄戦後史』によれば、ピーク時である52年頃には、「公務員関係を除けば、雇用労働者の過半数は、米軍あるいは基地関連企業に雇われていた」というのだから、むしろこちらが歴史の「本体」と言っても良いほどだ。待遇も良かったようで、「憧れの職場だった」ということが何度も語られている。多くの人が、吸い寄せられるように職場としての基地にたどり着いている。

 もちろん、数だけの問題ではない。沖縄戦のサバイバーたちが、自分たちの家族や同胞を殺した米軍に雇われる、ということ。そしてそれを、本土の法律が及ばない世界で構造的に強要されている、ということ。そこで戦争に加担することに自己嫌悪し、基地に反対しながらも、生活のために働き、処遇改善を要望していく、ということ。『醜い日本人』の言葉を借りれば、「沖縄がかかえる矛盾のかたまりのようなところ」で、人々は必死に労働し、必死に生活していたのだ。

 

 だからこそ本書は、一面的な読み方を許さない本でもある。ある者にとって、占領者である米軍への反発は必然であり、またある者にとって、雇用主である米軍への適応は必然であった。もっと言えば、それらの矛盾する二つの必然性は、多くの人の中で自然と共存した。83人の語りは、時に大きく共振しながら、また時には互いに相容れないまま、あるいはそれぞれの語り手を二つに引き裂きながら、とにかくここに並んでいる。

 必ずしも「証言」や「告発」の枠に収まりきらない、厳しい時代を生き延びたエネルギーに圧倒されつつ、その矛盾した、引き裂かれたオーラルヒストリーに耳を傾けていると、一人一人が歴史である、という当たり前の結論に辿り着く。乱暴だがそれらを全部ひっくるめて、とにかく面白い本だなと思った。

 

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著者:沖縄タイムス中部支社編集部
出版社:沖縄タイムス
初版刊行日:2013年11月8日

中野好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』書評|戦後沖縄の揺らぎに耳をすます

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 同じ著者(新崎)の『沖縄現代史』(2005年)では、わずか33ページに圧縮されている米軍支配下の沖縄。その尺が、『日本にとって沖縄とは何か』(2016年)の段階になって69ページにまで戻った意味は、辺野古新基地に揺れる今だからこそ、改めて「復帰」の意味を問い直す必要があった、ということなのだろう。

 日本国憲法が適用されない忘れられた島で、軍政と対峙した民衆の闘いの歴史。あまりに特殊な、沖縄固有の経験。その痛みは、復帰によって簡単に清算されるものではない。「はじめに」でも言及されているように、それは「日本戦後史の虚構を写しだす鏡」にとどまらず、「日本戦後史の矛盾をするどくえぐりだす刃」でもあるからだ。

 

 では、その「矛盾」はいま、どれほど正されているのだろうか。

 

 政府高官が、沖縄県知事との対談で「私は戦後生まれなものですから、歴史を持ち出されたら困ります」と言ってはばからないのだから、それはむしろ積極的に忘却されようとしているのかもしれない。その意味での沖縄戦後史とは、沖縄が本土に「忘れられたまま」復帰するまでの歴史とも言えるのではないか。

 だとすれば、復帰50年のいまを生きる私たちが、戦後生まれだろうと、復帰後生まれだろうと、平成生まれだろうと、この弾圧と抵抗の歴史を知り、日本戦後史の矛盾が「沖縄問題」にすり替えられてきたことを改めて記憶し、忘れないでいることそのものが、一つのアクションになると信じたい。

 

 と同時に、せめてもの時代の後知恵として、本書が指摘する過ちの構図には注意しなければならないだろう。優しい内地人を気取った「本土側の自己批判」も、一面的な「沖縄側の本土告発」も、ただそれだけでは十分ではないというのだ。米軍の横暴ぶりや本土の無関心ぶりをいったんは差っ引いた前提の上で、沖縄が常に一枚岩で抵抗運動を展開していたわけではない、ということに留意が促されているのである。

 とは言えそれは、沖縄内部の分断や対立、あるいは時に少なからぬ人々が経済合理主義的な判断に立ってきたことを批判するための免罪符にもなり得ない。本書の中から読み取るべきは、絶望的貧困の中から再出発せざるを得なかった戦後の沖縄で、あるいは「恒久的な軍事基地の建設それ自体が、沖縄経済復興政策としての意味をもたされていた」中で、その時々を必死に生き抜こうとしてきた人々の揺らぎであり、複雑さであるだろう。

 

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著者:中野好夫新崎盛暉
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:1976年10月20日

大田昌秀『新版 醜い日本人』書評|日本にとって沖縄とは何か

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 本書の旧版が出たのは1969年。沖縄の施政権は米国にあり、軍隊に支配されたその島に日本国憲法の適用はなかった。途中、引用されている米軍側の表現を借りるなら、沖縄で暮らす人びとは「一人前の日本国民でもなければ米国市民でもない」状態に置かれていたのだ。

 1972年に実現する施政権返還は、すでに『日本にとって沖縄とは何か』などでも見てきたように、沖縄側の期待に沿うものではなかった。アジア地域の平和と繁栄のため、という口実で日米安保体制の再編・強化のテコとされた結果、沖縄への基地集中はむしろ復帰前後で加速することになる。

 そうした「復帰」の実態が見え始めていたのだろう、本書を貫くのは、どれほど文体を抑制しようとにじみ出てくる巨大な怒りである。「沖縄戦における犠牲の意味をあいまいにし、戦争の処理さえも終わっていないまま、沖縄をして、ふたたび国土防衛の拠点たらしめよう」とする人々に対する最後通牒だ。

 

 「醜い日本人」。その含意は、忘れられた島から本土に向けた怨嗟であり、内地人を名指しした真正面からの批難でもある。そのマグマのような怒りは、著者本人を失い、復帰から50年になろうという2022年においてもなお失われていない。

 実際、著者が本書で繰り返し指摘した「大きな目的のために小さなものが犠牲にされる」構図は、今も続いている。第4章を除き、2000年に再版された際も元の記述は生かされたとのことたが、歴史的な事実関係を除き、ほとんどの文章が当時書かれた時制のまま「読めてしまう」ことにショックを禁じ得ない。

 

 再版にあたって大きく変わったのは、第4章とのこと。当初、沖縄の民衆運動をまとめたものだったらしいが、全編的に改められ、沖縄をめぐる問題の「淵源」を探る内容になっている。

 1609年の「薩摩の琉球侵略」から明治政府による「琉球処分」、そして沖縄戦における「捨て石」的扱いや、講和条約における「切り離し」までを並べることで見えてくるのは、沖縄と中央をめぐる歴史の反復性、パターンのようなものである。それは差別支配と呼ぶしかない、一方的で執拗な暴力の歴史だ。

 

 『新版』のあとがきには、「痛恨の想いをこめて、今一度、本書を世に問わざるをえない次第だ」とある。ここに付け足せる言葉などない。復帰50年となる沖縄では、繰り返し示された民意を無視したまま、巨大な「新基地」の建設が今日も進められている。

 

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著者:大田昌秀
出版社:岩波書店岩波現代文庫
初版刊行日:2000年5月16日