The Bookend

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パップ・ンディアイ『アメリカ黒人の歴史』書評|特集「ロング・ホット・サマー」3冊目

 自由と平和への長い道のり――副題にはそうある。だが、果たして自由や平和が、アメリカ黒人の手に収められたことがあったのだろうか。それが指の隙間からこぼれ落ちることも、どこかへ思わせぶりに飛び立って行ってしまうこともなく?

 監修者による序文には、「その日が真に到来したかどうかについては、見る人によって評価は異なるであろう」とあるが、自由も平和も道半ばだ。ためらいなくそう断言することが、2022年に本書に出会った読者の責任ではないかと思う。

 

 その序文にもあるとおり、本書は「奴隷制廃止後のアメリカ黒人の歴史」を手短にまとめた一冊であり、私のような初学者からすれば、すでに紹介した二冊の入門書と読み比べながらの復習にぴったりだった。また、巻末にまとめられた憲法判例の原文、指導者たちの演説や著作の一部に直接触れることで修正されるイメージも少なくなく、ありがたい。

 しかし肝は、何と言ってもほぼ全ページに挿入された写真資料だ。農村の黒人教会。「WHITE」と「COLORED」の札で隔てれられた二つの洗面台。黒人のボイコットで空っぽになったバス。初めて黒人生徒が登校した際のリトルロック高校。座り込みの最中、飲み物などを頭からかけられる人々。そしてワシントン大行進。どれもこれも、「これがあの」と見入ってしまうものばかりだ。

 

 特に印象的な一枚は、1971年のブロンクスに生きる子どもたちの姿だ(p.123)。キャプションを読むまでもなく、これが70年代と80年代の記述に挟まれている時点で、読者はここにヒップホップの「前夜」を見てしまうだろう。彼らを待つのは、「自由と平和」ではなく、高い死亡率と、「20歳から34歳の黒人男性の10人にひとりが投獄されている」現実なのだから。

 本書はその巻頭部分において、キング牧師の演説をややヒロイックに掲載するのだが、また一方では、キング牧師が直面していた「ゲットー」という限界をドライに描いてもいる。キング牧師にある種の「転向」を強いたゲットーのストリート。そこに佇む少年たち。彼らを待つのが貧困や暴力なら、彼らを照らすものはなんだろうか。

 

 オバマの高揚とともに終わる構成は、2010年の刊行ながらすでに時代を感じさせる。それくらい「いろいろあった」10年だと私は感じるが、「何も変わらなかった」10年と感じる人もいるに違いない。せめて、そのことを知らなくては。

 

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著者:パップ・ンディアイ
監修者:明石紀雄
訳者:遠藤ゆかり
出版社:創元社
初版刊行日:2010年10月20日

『アメリカ黒人の歴史(岩波新書、中公新書)』読み比べ|特集「ロング・ホット・サマー」1冊目・2冊目

 その昔、「曲がりなりにもヒップホップを聞こうとしているならこれくらい読んでおいた方がいいよ」と指定されたのが、本田創造『アメリカ黒人の歴史』(以下、『本田本』)だった。

 今となればその理由がよく分かる。ヒップホップとは、ニューヨークの荒廃した黒人街で生まれた音楽だからだ。ではなぜ、アメリカの大都市には黒人が密集して暮らすゲットーが形成されたのか? 彼らはどこからやってきたのか? これらの入門書が教えてくれるのは、黒人が強いられてきた長く辛い「移動」の歴史である。

 

 『本田本』は1619年から始まる。アメリカで代議院による自治が始まった年であると同時に、最初の黒人奴隷が「輸入」された年でもある。黒人奴隷は当時、家財道具や皿、書物などに並ぶ所有者の「動産」だった。それが「海賊的な行為」によってアフリカから連れて来られた黒人たちの出発点だった。

 アメリカの「正史」を、多くの矛盾を伴う「皮肉」として見つめ直していくこと。そういった観点からは、あの独立革命さえも、黒人の前を素通りしていった支配者層の妥協の産物に過ぎない。奴隷制度は憲法で容認され、それに依存する南部と、自由な北部という二つのアメリカが誕生したのだから。

 

 その衝突が南北戦争だが、リンカーン大統領による奴隷解放令と南軍の降服をもってしても、黒人の奴隷的労働や人種差別はなくならなかった。むしろ南部では、公共交通や学校、レストランなどでの人種隔離が法制化され、「ジム・クロウ」として悪名高い差別制度が強化されていくのである。

 やがて、南部農村からの黒人の脱出が始まる。第一次世界大戦による経済活況も手伝い、北部の大都市への移動が飛躍的に増大した。だが、都会の生活を知らず、賃金も安かった黒人たちは、都市の隔離された一区域に押し込められた。これがゲットーだ。出口はどこにもなかった。

 

 2歩進んでも3歩戻される。それでも、ローザ・パークスは座り、マーティン・ルーサー・キング牧師は歩いた。多くの黒人たちがバスをボイコットし、食堂に座り込んだ。こうして公民権運動が巨大なうねりとなる。1963年のワシントン大行進はその絶頂で、21世紀の今でも映画の題材になるほどだ。

 しかし、アメリカ黒人史はそこでハッピーエンドとはならなかった。「その後」に待っていたのは、黒人同士の経済的な階層化や分極化だった。多くの黒人はゲットーから逃れられず、『本田本』の最後には「階級」という言葉すら登場する。黒人の怒りと失望とともにある、噂にたがわぬ名著であったが、後味は苦い。

 

 この続きを、『本田本』の書き直しを目指したという上杉忍『アメリカ黒人の歴史』(以下、『上杉本』)はどう描いているか。時代は2013年。奴隷の子孫ではないとはいえ、黒人の大統領が誕生し、2期目を迎えている。たとえ象徴的なレベルだけであっても、こうした進歩を選択できるのがアメリカという国だと思う。

 しかし残念ながら、状況は好転していない。差別制度の撤廃はむしろ、「機会の平等」を演出する口実として利用され、黒人の直面する「結果」に対する自己責任の圧力を高めた。階層格差に加えて、奴隷にルーツを持たない新たな黒人移民も増え、同じ黒人とは言っても、アイデンティティの持ちようや連帯のあり方も変わってきている。

 そうした時代に、それでも黒人の貧困層を特徴づけるもの。「母子家庭」や「固形コカイン(クラック)」という言葉が印象に残るが、多くの黒人は今なお教育からも雇用からも排除され、麻薬とともにギャングに取り込まれていく生活から抜け出せていない。むしろ企業による囚人雇用とともに、その傾向は強まっているようだ。

 

 こうした歴史認識の連続性において、『上杉本』はまずもって『本田本』の「続き」として読めそうだ。その上で、両者のもっとも象徴的な違いを挙げるのなら、『上杉本』では結婚や音楽など、黒人たちの生活文化にも眼差しが注がれていることだろう。ハードな闘いのなか、黒人たちが「何と共にあったのか」を垣間見せる。

 さらに言うなら、『上杉本』は『本田本』を相対化してもいる。特に、大統領の歴史的決断を、個人的資質ではなく政治的な駆け引きの産物として「冷却」しながら描き出している点は強調すべきだろう。反共、赤狩り、冷戦下におけるアメリカの世界戦略との整合性。そうしたより大きな目的の下で、黒人たちの権利は取引されてきたかに見える。

 

 奇しくも『上杉本』が発行された2013年、SNSには#BlackLivesMatterというハッシュタグが登場する。契機となったのは、日常的なレイシャル・プロファイリング、そして白人警官による黒人青年への暴行だ。1619年からすでに400年になるが、これだけ聞くと何も変わらないかのようだ。この古くて新しい問題がなくなるまで、いったいどれほどの命が犠牲になるのか。

 

(今回からアメリカ黒人史を集中的に学ぶシリーズ、「ロング・ホット・サマー」を始めます。10冊読むまで長く暑い夏は続きます。)

 

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(写真左)
著者:本田 創造
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:1991年3月20日

 

(写真右)
著者:上杉 忍
出版社:中央公論新社中公新書
初版刊行日:2013年3月25日

【追記】『ちむどんどん』と沖縄戦――このドラマが描けたものと、描けなかったもの

 少なくとも、NHKの「沖縄本土復帰50年プロジェクト」としての『ちむどんどん』はおおよそ終わったように思う。

 沖縄戦についての語りが終わり、料理人としても東京で認められ、予定されていたカップルの結婚が成り立ってしまった今、このドラマがこれまで「反省会」タグを賑わせてきた演出の数々を改めて思い起こせば、この先に待ち受ける困難やそれがバタバタと克服されていく過程は嫌でも想像できるというものだろう。

 そうしたパターンと反復をこの先も覚悟する時、復帰50年を念頭に置いた「沖縄もの」としても、沖縄をいち地方とした「上京もの」としてもすでに山場を過ぎたであろう本作が、残り1ヵ月以上、いったいどんな見せ場を用意できるのだろうかと心配になるのは私だけではあるまい。

 

 とは言え、このドラマに対する自分の立場は第25話の時点でアップしたこちらの記事(↓)に記してあるし、その後、様々な議論の中で「反省会タグはいじめである」という意見まで登場するような状況となっては、今さら批判をつけ加えるのも野暮だと思っていた。9月30日(木)の最終回をそう遠くない未来に控えた今、多くの人が望んでいるのはせめてもの軟着陸であり、これ以上の粗探しではないのかもしれない。

 

 

 それでも今、こうして未練がましく「追記」をアップしているのは、本作が沖縄戦を描いた際、那覇を焼け野原にした1944年10月10日の「空襲」をシンボルにしたことに対する違和感が拭いきれないからである。もちろん、1200人以上の死者を出したというこの空襲も紛れもない沖縄戦であり、傲慢にもそこで失われた命に象徴的価値を付けたり、それを値引いたりしたいわけではない。そもそも、本を何冊か読んだ程度の知識で沖縄戦を語ることなどできるはずもない。

 だが、例えば沖縄戦のサバイバーでもある大田昌秀沖縄県知事の『沖縄のこころ』が、1945年4月1日の沖縄本島への「米軍上陸」から始まっていることの意味を、もう一方では考えてしまうのである。「国内唯一の地上戦」という決まり文句が今日まで受け継がれてきたことの意味を、つい考えてしまうのである。よりハッキリと言うなら、マイク・モラスキーが『占領の記憶 記憶の占領』において「占領比較において意外に注目されないが、この点は非常に重要である」と指摘していたとおり、

 

沖縄と日本本土の占領の根本的な違いは、全く異なる戦争体験に基づく。本土を襲った酷い惨害にもかかわらず、(本土では)どれほど強烈な兵器であれ、アメリカの襲撃は空から行われ、敵自身の姿は見えなかった。ゆえに、彼らの戦中体験においてアメリカという敵は、抽象的で遠いものであった。

 

のだとすれば、本土にとっての戦争のイメージに近い「空襲」を取り出し、その後の「焼け野原と闇市」という共通のイメージで本土と沖縄をつなげようとした『ちむどんどん』は、戦争を描写するにあたってあえて「抽象的」な側にとどまったような気がしてならないのだ。それはそれで一つの選択だろう。だが、やはり沖縄戦を生き延びて新聞記者となった池宮城秀意が、その名著『戦争と沖縄』において以下のようにはっきりと書き残したことの核心が、予備知識のない視聴者にどこまで伝わったのか、考えてしまうのである。

 

沖縄戦の悲劇は、ひめゆり学徒隊鉄血勤皇隊、防衛隊などのように、非戦闘員であった者たちが戦場に送りこまれ、その命を奪われたことと、アメリカ軍の上陸によって地上戦になり、20世紀文明がつくりだした新しい殺人兵器によって、沖縄中が血まみれになったことでした。そしてこの沖縄戦をさらに悲惨なものに追いこんだのは、日本軍の無謀な行動にほかなりません。

 

 もちろん、この「先」に待つおびただしい数の死や、悲劇の数々は、ある時から沖縄が望まぬ「歴史戦」を強いられている震源地でもあるから、朝ドラが下手なリスクを冒してまでこれ以上踏み込む必要はない、あくまで戦争一般の悲惨さが引き出せればそれでいい、という判断があったとしてもまったく不思議ではない。やはり、それはそれで一つの選択だろう。

 ただ、劇中、沖縄戦へのただならぬコミットメントを示す二人の男(新聞記者の和彦とその上司・田良島)が、沖縄戦のことをどう本土読者に伝えていくか、「鉄の暴風」というキーワードをちらつかせながら一方では葛藤してみせるとき、だがもう一方では上記のような沖縄戦ならではの要素がほとんど語られないことのチグハグ感を、私は消化しきれなかった。

 おまけに、沖縄戦の「語れなさ」がいくつかの理由に起因し、そのうちの一つに語り手の「資格」のようなものがあるとするなら、沖縄戦の語り方を「一生かけて考えます」と誓う和彦の志も、むしろドラマの演出上、もっと何度も阻まれてしかるべきだったのだが、沖縄戦遺骨収集ボランティアの男性に「いい目をしている」と認められることであっけなく超越してしまうあたり、むしろこのドラマが沖縄戦の話題から足早に去っていく後姿を見た思いだった。

 

 前回(5月)の記事に、私はこんなことを書いている。「フィクションに政治を持ち込むなと、あなたは言うだろうか。であれば私は、政治を真正面から無作法に持ち込んだ上で、むしろ物語を動かしていくダイナミズムに利用してこそのフィクションだろうと言いたくなる」と。

 その意味では、「一生かけて考えます」と誓ったその口で、沖縄戦生存者の語りを自らの求愛の言葉に転用していった和彦の振る舞いは、その軽薄さを別にすればドラマ的な仕掛けであるとは思った。が、5年付き合った元婚約者と別れたばかりの男の口から飛び出た言葉としてはやはり軽薄としか言いようがなく、残念ながら、ドラマを躍動させる力とはなり得なかったように思う。

 

 一方、沖縄戦を知るための取材の旅『仲間由紀恵黒島結菜 沖縄戦 “記憶”の旅路』を見た後だから言うわけではないが、自分だけが生き延びてしまった罪悪感を人知れず抱えながら、ただ「幸せになるのを諦めないで」と子どもたちを諭してきた母・優子が、自らの体験を語りながら「終わっていないわけ、うちの戦争は」と泣き崩れる場面は、ほとんど唯一と言っていいほど、「沖縄本土復帰50年プロジェクト」に相応しい熱演だった。

 であればなおさら、このドラマがあと一歩でも二歩でも、「一生かけて考えます」というほどの覚悟で沖縄戦特有の悲劇に近づいていたのなら、暢子たちが、あるいは視聴者たちが、「これは奇跡だ――私が生まれたのは何という幸運*1」という啓示のような、あるいは体の奥底から湧き上がってくる無条件の愛や喜びのような感情を、もっと一緒になって噛みしめることができただろう。

 

 こうしたことに比べれば、ジェンダー的な問題意識を時々匂わせてきたのは何だったのかと思うくらい、和彦と暢子に最初から「ただいま」「おかえり」の関係を持たせたばかりではなく、暢子の生き方に感化され、スカートをズボンに履き替えるというこのドラマの中では抑制のきいた演出で日本を出ていった恋のライバルの席を奪ったヒロインが、逆にズボンではなくスカート履きまくって恋人の母親に手料理を振る舞いまくるという演出の意図が掴みかねるくらいのことは、黙って許容すべきなのかもしれない。

 

 さて、この不毛な文章もそろそろ終わりにしよう。沖縄に関する本を曲がりなりにも何冊か読んでいくと、「生き方の原点を沖縄戦における異常な体験に据えている*2」たくさんの人たちに出会う。そうした人々の語りは、多くの場合、やはり米軍や基地といった問題とは切り離せない。

 今さら蒸し返してしまうが、改めてこうした前提に立つなら、「鉄の暴風」とは言っても「銃剣とブルドーザー」とは間違っても言わないこのドラマの用心深さを前に、私はどうしても、本作がなし得たことよりもなし得なかったことの重さ、その途方もなさを思わずにはいられないのである。

*1:アケミ・ジョンソン『アメリカンビレッジの夜―基地の町・沖縄に生きる女たち』p.361

*2:大田昌秀『沖縄のこころ』p.1

山里絹子『「米留組」と沖縄 米軍統治下のアメリカ留学』書評|戦後沖縄の複雑さとしたたかさ

 これもまた越境者たちの物語だ。戦後の沖縄で、「沖縄」と「アメリカ」を隔てる境界線を跨ぎ、迷いながらも往復した者たちの物語だ。

 

 タイトルの「米留」とは、文字通り米国への留学を指す。この制度が米軍政府によって設立された1949年前後といえば、米軍による場当たり的な占領支配が改められ、予算的な裏付けとともに「沖縄の恒久的な軍事基地建設がはじまった*1」時期であり、その後1956年半ばまでは暴力的な土地の接収が行われ、「沖縄の民衆にとっての暗黒時代であった*2」という。

 こうした時代に、アメリカの予算でアメリカの大学へ留学することは、いったいどのような経験だったのか? 戦争に負けた国が勝った国のお世話になる屈辱的な経験だったのか? あるいは、「リンカーンを生んだ国*3」で民主主義の理想に触れる啓蒙的な経験だったのか? 米軍政府が期待していたのは後者のようだが、本書が書き留めた米留経験者たちの声を読むと、答えはこのどちらでもない。

 

 伝わってくるのは、高等教育への「飢え」だ。ちょうど琉球大学が設立される前後の時代、とにかくこれで大学に行ける、ただそれだけだったという主旨の語りが複数あり、印象に残る。アメリカの豊かさに圧倒されつつ、人種差別や格差の「現実」をも目撃しながら、誰もが猛烈に勉強した。限られた選択肢の中で、米留は沖縄を脱出しながら人生を切り開いていく手段だった。

 それも単なる「勝ち逃げ」ではなく、米留経験者の多くは、アメリカで得た知見を沖縄に還元しようとしていた。しかし制度の構造ゆえに、「権力と結びつく親米エリート」という冷ややかな視線を浴びせられたこともまた事実だったようだ。実際、彼らは留学前の思想調査に「合格」しているわけで、いわば戦後沖縄において「上方に疎外」された存在だったのかもしれない。

 

 とはいえ、そこには戦略的な「擬態」もあったことだろう。本書が描く米留の歴史は、冷戦下の沖縄統治をエリート教育によって内から補強していこうとするアメリカ側の思惑と、一方ではそこに乗りつつ、また一方ではそれを巧みに利用していこうとする留学者たちとの駆け引きの歴史にも思えた。

 もちろん、それを「戦略的な抵抗」と一括りにすることはできない。だがそれでも、この制度が大田昌秀を輩出したという皮肉な事実からは、戦後沖縄の複雑さ、こう言ってよければ「したたかさ」を感じずにはいられないのである。沖縄戦後史の知られざるアナザーサイドだ。

 

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著者:山里絹子
出版社:集英社集英社新書
初版刊行日:2022年4月20日

*1:中野好夫新崎盛暉沖縄戦後史』p.39

*2:中野好夫新崎盛暉沖縄戦後史』p.59

*3:阿波根昌鴻『米軍と農民』p.217