Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

ヒューズ兄弟監督『ポケットいっぱいの涙』映画評|ボーン・イン・ザ・U.S.A.

 アメリカで黒人として生まれることについての、映画である。勝手に副題をつけていいなら「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」にするだろう。ブルースが歌ったものとはだいぶ異なるが、ここにもアメリカの飢えきった心があり、アメリカに生まれることの耐え難い苦難がある。

 冒頭、まず映し出されるのは、「アメリカ史上最大規模の黒人暴動*1」として知られ、1965年のロサンゼルスで始まって以来、「州兵が出動したが6日間も沈静化されなかった*2」というワッツ暴動の記録映像である。どんなにずる賢い政治家であろうと、自らの政治運動に悪用しようもない。

 だが、映画はその時代の怒りを描くわけではない。物語の舞台となるのは、「ロング・ホット・サマー」から30年後のワッツ地区だ。そこにあるのは、ドラッグと暴力に蝕まれた日常である。誰もキング牧師のように夢を見たり、マルコム・Xのように怒ったりはしていない。ただ、生きている。正確には、殺し合っている。殺し合うためだけに生きている。

 予告編にはマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」が使われているが、まさにそのとおりだ。いったい何が起こっているのか?

 

 当時、若干21歳のヒューズ兄弟が監督。TVドラマのようなテンポのいい、計算の行き届いた展開と、意外にも凝ったカメラワークが随所に光り、それを犯罪と暴力の描写が突き崩していくキレのいい仕上がり。先に紹介した『ドゥ・ザ・ライト・シング』や『ボーイズン・ザ・フッド』などと異なるのは、本作が一つのエンタメ作品として成り立って「しまっている」点だろう。

 これらの先行作品では、当時の黒人が置かれた状況は「改善されるべきもの」だった。が、ここでの描写はもう少しタフである。環境への「適応」がすでに不可避になっているのだ。『ボーイズン・ザ・フッド』のように、彼らを導く父親はいない。父親がわりの男は刑務所の中だ。だからただドラッグを売りさばき、銃を撃ち合う。選択肢なんてないのだ。

 この露悪的なまでのリアリズムが「見世物」なのか、やけっぱちの「現状肯定」なのか、アメリカの良心に訴えるための「告発」なのかは議論のあるところだろう。ただ、本作のタフさは、その判断を観る者に委ねているところだ。エンタメとして観るなら観ろと。それで白人様からカネが取れるなら取るぜと。それでも俺たちはここで「生きている」ぜと、この映画は言っているのではないか。

 

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監督:アルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズ
原題:Menace II Society
劇場公開日:1993年5月26日

 

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*1:本田創造『新版 アメリカ黒人の歴史』p.226

*2:上杉忍『アメリカ黒人の歴史』p.146

岸政彦『図書室』書評|「世界の終わり」の終わりについての、小説みたいな映画

 誰かが映画化したらいいのに、とまず思った。というか、誰もやらないなら俺がやるで、と慣れない大阪弁で思った。まあ、すでに想像の中ではほぼ撮り終えているのだが。謎のウイルスで人類が滅び、世界が終わったあとの世界を、大量の缶詰を抱えながら歩く少年と少女の頼りない姿。「彼」に置いて行かれそうに感じて、思わず早足になる「私」。饒舌さと寡黙さを行き来する二人の姿を、引きの横移動でカメラに収めたらベタ過ぎるだろうか。

 いや、ベタでもなんでもいい。とにかく、私もこの子らと一緒に「地球」を見てみたいと思った。ただ「地球やな」としか言いようのない風景を撮りたいと思った。夕方と夜が混ざり合ったような河川敷の、あのススキの原を。あるいはそこから見える工場の煙突や、煙を。誰かが暮らす遠い街並みを。でも、二人が見たのはこれ「だけ」ではなかったはずなのだ。その直前の買い出しの場面の含めて、こんなに映画にしたくなる小説もなかなかないのではないか。

 

 というか、表題作の「図書室」、これは小説として書かれた映画なのかもしれない。ハイライトとなるのは、世界の終わりが終わる瞬間の安堵と失望が混ざり合う瞬間か、あるいは「40年後」の河川敷、防災倉庫、南京錠と「私」であり、そこをどう撮るかが映画全体の出来を決めるのは分かり切ったことだが、最後の最後に差し込まれるシークエンスの唐突さがまた絶妙だ。

 小説のほとんどをリードしてきた図書室や「彼」との逸話全体がそこで急に相対化され、全く関係のない人生の断片が「私」を幸福に包み込む。読者は、これがボーイ・ミーツ・ガールの物語なんぞではなく、50歳になった「私」を規定する大事件についての語りでもないことを思い知る。『ビニール傘』収録の二作ほど激しくはないが、こうした話が「逸れる」感覚が、著者が書く小説固有の文体だと思う。

 

 大きな出来事の只中なのに、それとは関係のない人生の断片が何の前触れもなく降ってくる。その記憶は「そんなに好きじゃなかった」男とともにあって、そいつはもうここにはいない。意味わからん。でも、そういうことってあるんだろうなとただ思う。

 それが波であれ、何であれ、何かに人生を肯定してもらったことがある、という感覚が深い余韻とともに広がる。そしてその出来事が自分に訪れたことの「必然性のなさ」におののく。自分はこのエンディングを岸流のハッピーエンドとして読んだ。

 

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著者:岸政彦
出版社:新潮社
初版刊行日:2019年6月25日

ジョン・シングルトン監督『ボーイズン・ザ・フッド』映画評|世界から忘れられた場所で生きる

 誰もが「死体探し」の青春モノとして記憶に留めるロブ・ライナー監督の『スタンド・バイ・ミー』を分かりやすく、どこかシニカルに引用しながら、「Boyz」たちの青春が幕を開ける。人が死ぬことがまったく珍しくない地域で、少年たちは遭遇した死体をどう見たのだろうか。映画としての演出意図は、言うまでもない、未来の暗示である。彼らが目にしたのは、「未来の自分」だったか、それとも「絶対に避けたい未来」だっただろうか。

 

 安易で、感傷的な連想だとは思いつつ、映画を観終わった時、真っ先に聴きたくなったのは本作に出演しているアイス・キューブが所属したN.W.Aの「Boyz-N-The Hood」ではなく、2パックだった。特に、暴力の連鎖によりストリートで次々に息絶えていく若きギャングスタ―たちを思う「Life Goes On」を何度か聴き直し、そこで歌われているものがなんとなく分かったような気がした。

 もっとも、本作でメインに描かれる青年たちは別にギャングスタ―ではない。荒廃したロサンゼルスの住宅街で、リッキーはアメフト選手を夢見ていて、その幼馴染のトレは大学進学によって現状からの脱出を目指す「普通の」青年たちである。が、ストリートのしがらみの中で人生のコントロールを少しずつ失っていく過程はギャングスタ―のそれとほとんど変わらないのではないか、とも思う。

 事実、この親友同士の二人組は、拳銃をチラつかせて虚勢をはったりしているリッキーの兄・ダウボーイを媒介に、ギャングたちの世界とうっかり交わることになる。暴力が容赦なく行使される世界。そこで先に逝ってしまった者と、残された者。そこで閉ざされた人生と、それでも続いていく人生。ある時代のアメリカを、黒人として生きるとはこういうことだったのだと、思わず言ってしまいたくなる。

 

 もちろん、そんな権利は私にはないし、アメリカ黒人というだけで生活条件を一般化することはすでにできない時代だったはずだ。が、入門書を何冊か読んだ今、本作には都市部に取り残された80年代後半当時のアメリカ黒人が置かれたある種の典型的状況――貧困、家庭崩壊、犯罪や疾病、麻薬汚染、警察官の暴力など*1――が(おそらくは現実を上塗りする形で)描かれていることが分かる。「階層の分極化」や「低賃金」、「十代での妊娠」、「母子家庭」も加える必要があるだろう。

 このうち、疾病(エイズ)や麻薬(クラック)は『ドゥ・ザ・ライト・シング』でスパイク・リーが(おそらくは意図的に)描かなかったものでもある。一方のシングルトンは、自伝的作品である本作において、ある意味では「お決まり」でもあるこれらの要素をすべて盛り込んでいる。政治的効果まで見込んだ上での問題提起を企てるよりも前に、ありのままの現実を描写することを選んだのだろう。その意味で、本作は非常にラップ的と言えるのではないか。

 実際、『ドゥ・ザ・ライト・シング』が人種間の対立をメインに描いたのに対し、本作はアメリカ黒人同士の内部対立に意識が向けられている。その意図は、レイシャル・プロファイリングを行う警官までもが黒人である点にもっとも象徴的に凝縮しているように思う。もはや、「ファイト」すべき相手は自明ではないのだ。帰宅後、普段は温厚なトレがあまりの屈辱に行き場のない怒りを爆発させる場面は本作のハイライトとなる。

 

 さらに付け加えるなら、学生時代に(おそらくは未婚のまま)トレを産み育てたであろうトレの両親が会食するシーンを思い出してもいい。白人だらけのレストランに2人が上等な身なりで溶け込む場面、何か良くないことが起こりそうで身構えてしまうのだが、何かが起こりそうで何も起こらない。間違っても他の客にエスプレッソを頭からかけられたりはしない。もう公民権運動やロング・ホット・サマーの季節ではないのだ。

 この時代、アメリカ黒人の地位は「全体としては」向上し、改善した。トレの両親はそれを体現した存在である。だからこそ、トレたちの暮らす「地元」は世界から忘れられた場所になってしまったのだろう。「それは君たちの努力不足だろう」という論法で。アメフトも勉学もなく、ただ刑務所と地元を行き来するダウボーイのやるせなさ。「父親」が不在の世界で、「遅かれ早かれみんな死ぬ」という感覚が街全体を飲み込んでしまっている。

 

 だからこそ、こうした「地元」から脱出するためのチケットとして「父親からの教え」が描かれている点については、正論がゆえの違和感があり、「母子家庭」社会に対するアンサーには今も当時もならないのではないかと思ってしまった。かと言って、修士号を持つトレの母親が体現するような「勝ち上がり」を全員に求めるのも現実的ではないだろうし、本作が全体として表現するのはやはり、世界から忘れられた街で、それでも生きるということのリアリズムだろう。

 『ドゥ・ザ・ライト・シング』評と同じ結論になってしまうが、こうした告発の表現が、2022年の今もなお現在性を失わない点に、本作の批評的な意義と、空しさが凝縮している。もちろん、それはこの映画の過失ではないけれど。また、告発という点に限れば、スマートフォンによる撮影とSNSによる拡散という手法がすでに本作を追い抜いているという言い方もできるだろう。BLM運動を持ち出すまでもなく、それは今を生きるトレたちの力となっている。

 だからこそ逆に、ブラック・ムービーは今、何を描くべきなのか、ということを考えさせられた。読むべき本も、考えるべきことも山積みではあるが、「ロング・ホット・サマー特集」の延長として、もう何作か観てみたいと思う。

 

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監督:ジョン・シングルトン
原題:Boyz n the Hood
劇場公開日:1991年7月2日

 

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*1:上杉忍『アメリカ黒人の歴史』p.189