シンガー・ソングライター、寺尾紗穂による南洋・サイパンの、日本統治時代の「記憶」をめぐる聞き書き――。本書を最小限の労力で要約するとそうなる。ここにどのような価値や、彼女の音楽活動との整合性を見出せるかは、もっぱら読者の感度にかかっている。
とは言え、オーラルヒストリーを本にして世に問うからには、本書は、最低でも二つの問いに答えなければならない。一つは、これが誰にとっての歴史か、ということ。そしてもう一つは、その語りを聞く人が、いかなる立場でそれを書くか、ということである。
一つ目の問いに対して、寺尾はすでに音楽家としてのキャリアの中で、何度も答えている。彼女がここで書き留めるのは、「たよりないもの」たち、自分が書き留めなければ「なかったことになるかもしれない」ものたちにとっての歴史である。
例えば、青柳貫孝というお坊さん。はるか南洋の地に寺や学校を作り、福祉に尽くした人物だが、ウィキペディアには項目がない。中盤以降の中心に据えた人物でさえこうであるから、その他の人々はさらに「たよりない」。
しかしここで、そうした人たちを「名もなき市井の」などと一括してはいけないのだろう。それは為政者の暴力と変わらない。人々の「名前」を取り戻すためにこそ、著者は歌ではなくこの本を書いたのだから。
一方で、二つ目の問いに対する答えは、一見分かりにくい。著者は、戦争に翻弄された人々に前に、告発者にも代弁者にもならない。行き当たりばったりの「観光客」という言葉が一番近いだろうか。著者の前に現れたのは、分かりやすい日本批判ばかりではない。
しかし彼女は、その散らばりを編集しない。「モデル犠牲者」を探さない。あくまでも観光客である「私」として、旅の過程、思考の過程すべてを、注釈の欄まで使い切って文章化している。それを鬱陶しく思う人もいるだろう。しかしそれこそが彼女の誠実さなのだ。
そう、弱者や、抑圧されし人々を理想化することは簡単だ。しかし、それ自体が抑圧以外の何であろうか。著者はその事に自覚的である。
その上で、最後に上野千鶴子の言葉を添えておこう。慰安婦問題を通じてオーラルヒストリーを理論的に援護する『ナショナリズムとジェンダー』の中で、彼女は書いている。
歴史のなかで少数者、弱者、抑圧されたもの、見捨てられたものたち・・・それがたったひとりであっても、「もうひとつの歴史」は書かれうる。
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