The Bookend

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『海をあげる』書評|今度こそ、私たちが上間陽子の話を聞く番だ

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 それはとても迷いながら書かれた本のように思えた。上間陽子の『裸足で逃げる』のことだ。沖縄の風俗業界で働く女性たちの聞き取り調査を、何本かの物語として切り出したものだが、告発に乗り出す正義感とはまったく異なる熱量で、それは書かれていた。

 著者は大学に籍を置く研究者でありながら、女性たちの支援者にもなる。というか、なるしかない。「選択肢」なんか、ないのだ。その切迫感。そして、その関係性だからこそ引き出すことができた他人の人生を聞き書きすることへの躊躇い。その全てが、言葉にされていた。

 それが大きな反響を呼んだのは、それでも「知りたい」と思う人が潜在的には多いからだろう。そう、世の中には、優しい人がとても多い。

 

 しかし3年ぶりとなった本書で、上間陽子はその「優しさ」こそを問う。著者初のエッセイ集という触れ込みになっているが、内容はハードだ。本書は育児書としての表情も持っているが、雰囲気が変わり始めるのは3つ目の「きれいな水」から。そこでふと、著者が暮らしているのは沖縄である、という事実が背景に立ち上がる。

 そこでは水道の蛇口を捻るだけで、米軍との関係を考えざるを得ない日々が続く。「目の前の日常」に、嫌でも「政治」が入り込んでくる。著者が聞き取りを行なってきた女性たちと同じだ。暴力がいきなり目の前に現れて、その場で態度表明を求めてくる。イエスかノーか。しかし実際のところ、そこに「選択肢」はないのだが。

 

 本書をつらぬく怒りは、「優しいひと」においてピークに達し、最後の「海をあげる」で爆発する。著者は直視を強く求め、論争的な問いかけも辞さない。いや、問いかけなんていう温かいものではない。「選択肢」を持つことのできる、恵まれた、優しい読者たちへの、著者からの一方的な委任である。

 著者をここまで追い込んだのは、私たちの中途半端な優しさに違いない。しかし、選択肢を奪われ、途方に暮れる私たちをよそに、ボロボロになった著者をそれでも再び突き動かすのは、「生活者たちは、沈黙している」という確信である。なんて強いんだろうか。

 思えば岸政彦は、『裸足で逃げる』の帯に寄せてこう書いていた。 

 

今度は、私たちが上間陽子の話を聞く番だ。

 

  その言葉は、本書にもまた相応しいように思う。というか、私は今やっと、この言葉の意味が分かった気がする。僭越ながら繰り返そう。今度こそ、私たちが上間陽子の話を聞く番だ。

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著者:上間陽子
出版社:筑摩書房
初版刊行日:2020年10月31日