岩波から出ている上野千鶴子の学術本かあ、と怯むことなかれ。特に社会科学の訓練を受けたことのない筆者でも読み通すことができたのだから、さしあたり必要なのは問題意識である、と言っておきたい。
筆者の場合、それは「妻との育児・家事分担」であった。笑ってしまうくらい、ありふれている。そんな時、ふと覗いたツイッターのトレンドに、「共働きの妻が『夫を捨てたい』と本気で思う瞬間」とあるではないか。
どうやら、1990年に書かれた本書が古典になる日は遠いらしい。
本書の分析に照らせば、そこで題材になっている「家庭と職場の板挟み」とはまさに、「家父長制と資本制による二重支配」そのものである。
労働市場は女を、二流の労働力としてのみ扱う。時が来れば、市場にとっての「死角」である家庭に追い出し、家事・育児という不払い労働に従事させる。そして再び、家長予備軍たる「息子」か、自分のような女らしさを内面化するであろう「娘」を大学に行かせるためだけに、半分だけ戦力とされて職場に戻る。
こうした家父長制と資本制との、無言の調停。いや共犯は、「愛」や「母性」の神話で女を黙らせる。どこへ行っても、「層としての男」が女の行く手を拒んでいる。
出口はどこにあるのだろうか。女性は確かに「産む性」だ。しかし、「妊娠して、出産して、授乳する性」に過ぎないとも言える。ならば、その他の過程において「育児参加」する男が増えさえすれば、彼らは本来、女の敵であるはずはない。
しかし、本書の問いは激しい。それは単に、男が「二人目の母親」になっただけなのではないかと。変えるべき性別役割を、交換したり、分担したりしているに過ぎないのではないかと。だとすれば、私たちは家父長制を温存しているだけ、ということになる。
この問いに対して、本書は瞬発的な処方箋をくれるわけではない。むしろ、悩みは深まるかもしれない。現実に目を向けたところで、男性の育児休暇の取得率は、ほとんど上昇していない。職場の軽蔑に耐え、ようやく取得したところで、「妻も手なずけられない二流の男」として女性化されていくのだろう。
しかし、出発点としてはやはりここしかないのではないか。女性に押し付けてきた「解けない問い」の前で、すべての父親は、「父親として」ではなく、「二人目の母親として」考えなければならない。労働を、あるいは子育てを、できる限り本当の言葉で語るために。
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