1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー 新版』書評|あなた方の正史に、わたしは含まれていない

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 苦闘の書だ。著者、上野千鶴子の1990年代は、いわゆる「慰安婦問題」に捧げられている。本書はその総決算なのだが、達成感らしきものはどこにもない。 

 本書が戦いを挑んでいるのは、「ただひとつの真実」、「決定版の歴史」を求める人々の欲望である。端的に、そんなものは存在しないと言っている。元「慰安婦」として名乗り出た韓国人女性たちの傍らで。

 

 もっともスリリングなのは、「資料もなく、女の証言だけを根拠に歴史の訂正なんて」という典型的な批判に対して、「資料がないからこそ、証言にリアリティがあるのだ」と論理をひっくり返す瞬間である。

 「書かれた歴史の不在」という、いわば歴史の焼け野原に立って、「あなた方の正史に、わたしは含まれていない」と堂々と声を出すこと。文書史料至上主義に喧嘩を売り、オーラル・ヒストリーを死に物狂いで援護すること。議論は極めて戦闘的だ。

 本書にはこのほかにも、「国民国家における女性」という太いラインが並走しており、本のタイトルからすればむしろそちらこそが本流なのだが、著者の熱意のほぼすべては、この「歴史の語られ方」に注がれているように思える。

 

 ただし重要なのは、「正史」を敵に回しているからと言って、こちらこそが「真実の歴史」だ、歴史の原本を上書きせよ、と要求しているものではないことだ。

 「真実の歴史」が存在しない以上、歴史は常に修正されるものであり、筆者はそれを前提にしている。歴史には、それに関与した人間の数だけ表情がある。歴史の問題とはいつだって、それが「誰にとっての歴史か」ということに過ぎないのだ。著者はこのシンプルな論理を共有してもらいたい「だけ」である。

 しかし、それは多くの人々によって認められない。間もなく、「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」が発足。この国にも歴史修正主義の波が迫っていた。

 

 はっきり言って、このあたりの論争の記録は読んでいて楽しいものではない。しかし、目を背けてはいけないのだろう。誰がより愛国的か、をめぐる粛清のゲームは今日も続いているのだから。

 もちろん、筆者がここでまとめたような議論は、とても大雑把なものだ。経過した時間の長さから見ても、本書がその理論面において最前線であることはあり得ない。が、少なくとも、これ以上後退することはできない、これ以上忘れることはできない、そんなセーブポイントを刻み込んではいるのではないか。 

 

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著者:上野千鶴子
出版社:岩波書店岩波現代文庫
初版刊行日:2012年10月16日