The Bookend

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東浩紀・宮台真司『父として考える』書評|むずむずの先こそが読みたかった

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 そろそろ卒業かなー、などと思いつつ、『思想地図』の「vol.4」の見納めをしていたら、「父として考える」という対談原稿が目に留まった。語り手は東浩紀宮台真司。説明無用のビッグネーム二人が、 育児をネタにあれこれ語っている。

 好評だったらしく、新書になっている。それが本書で、すでに10年前の本だが、「男の知識人」が育児を語ることの象徴的な効果はまだ残っていると思う。遅まきながら取り寄せ、「育児体験の本」として読ませてもらった。

 

町や風景の見え方は、身体的な能力や自由度に応じて変わる。その点で幼い子どもを抱えることは、要介護の高齢者と同居するとか、自分自身が肉体的なハンディキャップを負うことにかなり近い。

 

 筆者の実感は、東のこの言葉に凝縮している。私がよく想像したのは、車椅子で生活している人の目線だった。同じ理由で、小馬鹿にしていたショッピングモールの見え方も完全に変わった。この後の東が、ショッピングモールへ向かった理由も今となってはよくわかる。町はもっと滑らかになるべきなのだ。

 

 やがて話は、「教育」へと移っていく。論点は、格差と平等だ。子どもたちは、いろいろな格差を初期値として背負っており、「平等」なんてものが虚構であることがよくわかると。それ以前に、上野千鶴子が『家父長制と資本制』の中で整理してみせたように、子どもはいまや一種の「ぜいたく品」である。

 それを自覚している親とそうでない親がいるのは事実だろう。そこをブリッジさせるのは簡単ではない。ならば平等なんて理念は不要なのかというと、そうではないと。平等の理念は強い意志がないと守れない、理念には努力が必要なんだと。この確認が、本書の中でもっともパワフルだ。

 

 一方で、「専業主婦願望」の理解はやや疑問。「仕事も子育ても両方選べるようになった段階で、あらためて子育てを選ぶようになった」というが、「ならばなぜ男がこぞって子育てを選ばないのだ」という問いには答えておくべきだっただろう。それが、上野千鶴子を批判する上での最低限のマナーではないか。

 それを差し引けば、あくまで実感ベースで思考を進めようとする東には好感を持った。特に終盤、加速する宮台を前に、東のむずむずしている様子が伝わってくる。覚悟を決めた深掘りはなかったが、「女の経験を男の言葉で語る」以上の可能性が、そのむずむずの先にこそあったのではと思えてならなかった。

 

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著者:東浩紀宮台真司
出版社:NHK出版[生活人新書]
初版刊行日:2010年7月10日