Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

ECD『他人の始まり 因果の終わり』書評|命日に寄せて

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 人生は一回で、後戻りできない。その残酷さ。そして、その横を淡々と流れていく「時間」のさらなる残酷さ、そのようなものが感じられる。文章そのものが、止まることのない「時間」みたいだ。とにかく寂しい本だった。

 

 ラッパー、ECD。 3年前の今日、亡くなっている。著作としてはこれが最後の作品となった。

 ラップを通じて断片的には知っているつもりだったが、改めて本人の書き言葉でその人生を覗き込んでみると、それを規定していたのはやはり、「個」であることに対する飢えだったと認めるほかない。

 ただし、その思いは引き裂かれていた。かつて「カエルの卵のよう」と呼んで嫌悪し、自らの手で切り離した核家族というものを、同じその手で再生産したのだから。そこで訪れた変化は、「個」への飢えと矛盾していたことだろう。

 

 2010年に発表したアルバム『TEN YEARS AFTER』の中に、「Alone Again」という曲がある。サビで繰り返されるのは、ただひたすらに、独りになることの恐怖である。「ECDECADE」という曲では、アルコール依存症により精神科の閉鎖病棟に入院し、人生が底をついてから10年後、結婚して子どもを育てている自分への驚きがストレートに表現されていた。

 また、2009年のエッセイ「ボヘミアン・ラプソディ」の中で、「結婚と子供を育てることを決めたのは、もう、これは『自発的に貧しい状態で生活』することを選んだに他ならなかった」とまで書いていた著者だが、本書で語られるように、国保や住民税の滞納を解消し、高額医療費支給制度を申請するまでに変化していた。それは「信条をくつがえす」ようなことだったと認めている。

 

 いや違うと。ECDの希求していた「個」は、もっと思想的なものだと。そんな風に反論することはきっと可能だろう。だが、思想で家賃や入院費は払えない。おまけに、妻には自分のほかに好きな人がいて、闘病中に久しぶりに会った娘は、どんどん自分を必要としない人間へと育ちつつある。本書が書き留めるのはそうしたリアリズムだ。

 自分が所属する共同体から、少しずつ引きはがされていく。妻や子は、自分と同じ因果を選んでくれないかもしれない。それでも、自分の人生を決定する因果は、何にも寄りかからず、自分の手で選ぶのだと。その戦いを何と呼ぶのかは分からない。だがECDは、そういうものと戦っていた。そういう男だった。

 

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著者:ECD
出版社:河出書房新社
初版刊行日:2017年9月30日