これからジョージ・オーウェルを読もうとするときに、『一九八四年』でも『動物農場』でもなく本書から入る人はそれほど多くはないと思うが、私はそういう出会い方をした。ある雑誌の中で、ラッパー、ECDが紹介していたのを見つけたのである。
紹介、という言葉は正確ではないかもしれない。事実、そのエッセイ「ボヘミアン・ラプソディ」には、この表紙の写真が添えられているばかりで、たったの一言の言及もなかったのだから。
最後の著作となったエッセイ『他人の始まり 因果の終わり』に回想めいたものが書かれてはいないかと期待したものの、当然ながらそんなものはなかった。だが、ネタバレと呼ぶに十分すぎるほどの告白がなされていたのもまた事実だ。
ECDは、中流であることを嫌悪していた。それが人生の主題の一つだった。現代都市でボヘミアンであることがまだ可能なら、それは「自発的に貧しい状態で生活」することが前提になるだろうと考えていた。
「週5ポンドくれるんなら、社会主義者にだって何にだってなるさ、本当だぜ。」
こうのたまうのは、本書の主役、ゴードン・コムストックである。30代を前にして死人のような目でロンドンの街並みを眺め、中産階級のシンボルたる葉蘭の鉢植えを嫌悪している詩人である。赤木智弘のように、「戦争が始まればいい」と願っている。
個人的な実践として資本主義に抵抗を試み、「自発的に貧しい状態で生活」することに固執するが、抵抗すればするほどカネのなさに苦しめられ、また意地になって「自発的に貧しい」生活へと逃走していく、人生の袋小路でドン詰まっていた。
イギリスらしいと言えばイギリスらしい主題で、使い慣れない言葉を拝借するなら「プロレタリア文学」ということになるのだろう。貧しさとは、あくまで貧しさなのだと。そういったリアリズムは痛いほどだ。
しかしすべてを失う中、それでも人生を壊しに行くゴードンを見ると、私なぞは「行け、やっちまえ」と、思わず応援していた。これは侮辱に違いない。しかし、もしもこれが喜劇なら、せめて笑ってあげようと思ったのだ。
やがて、彼の戦いは終わりを迎える。負けたのはゴードン、ということになるだろう。しかし、ECDならそれを負けとは呼ばないはずだ。勝ちとか負けとか、そういう価値観から自由になる、自分の人生を引き受ける、話はそれからだと。結婚前、20代のうちに読んでおきたい傑作。
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著者:ジョージ・オーウェル
出版社:彩流社
初版刊行日:2009年3月31日