The Bookend

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

桐野夏生『メタボラ』書評|はなればなれに

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 二人の男が出会い、別れるまでの刹那。本書は、少なくともその意味において青春小説と呼ぶことができるだろう。一人は記憶喪失、もう一人は家出という、小説的としか言いようのない状態で闇夜を逃げ惑う二人が、沖縄北部、やんばると呼ばれる山奥で事故のように出会う。

 家出の男は、記憶喪失の男に仮の名=ギンジを与え、自らも本名とは別にジェイクを名乗る。暗示的なダチョウに混乱しながらも、ひとまず読者は、『メタボラ』が逃走劇なのだということを知る。そして、やっとの思いでたどり着いたコンビニで女が一人、約束されたかのように合流し、若者たちは白い軽自動車へと乗り込むのだった。

 

 ギンジにとっては自分探しの、ジェイクにとっては自分無くしの旅へ。これは約束の地を持たぬ者たちの、終わらない放浪についての物語だ。ギンジは、ボブ・ディランさながらに、「転がる石のように生きていくつもりだ」と心に誓う。

 だが、彼らを取り巻くのは、貧困のショーケースとでも呼ぶべき過酷な環境だ。下流社会、ホスト、DV、ワーキング・プア、バックパッカー、フリーター。帯には、このような言葉がぎっしりと並んでいる。押し流され、沈んでいく若者たちに、選択肢は無い。 

 そこには、「構造上の問題」がある。しかし、敵が構造であるならば、いったい彼らは誰と戦えばいいのだろう。その視界の悪さこそがまさに「構造的な」問題であるはずだが、本作が文学的に誠実なのは、こうした社会的な問題を著者が論じるのではなく、あくまでもギンジや、ジェイクたちの視点に留まり続けることだろうか。

 

 特徴的なのは、宮古島出身のジェイクや、本土からの移住組(ギンジも本土出身である)など、登場人物がよそ者ばかりなことだ。逆に言えば、那覇でしくじるとあとはもう「飛ぶ」しかない、そういう追い詰められた者たちの群像劇でもある。

 那覇は漠然とした都会として描かれ、いかにも桐野作品らしく、人々はそこで常に探り合い、騙し合っている。まるでラース・フォン・トリアーの映画みたいだなと、思う。露悪的で、ひたすら痛ましい。 

 

 やがて皆、離ればなれになっていく。それぞれが、それぞれの速度で、人生のポイント・オブ・ノー・リターンを通過していく。こんな時、せめて愛する人の手を握ることができたらと、小さく祈りながら。だが、若者たちの行き違いは虚しく加速していくばかりだ。夢から覚めていくようなラストが美しい。 

 

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著者:桐野夏生
出版社:朝日新聞社
初版刊行日:2007年5月30日