The Bookend

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下地ローレンス吉孝『「ハーフ」ってなんだろう?』書評|悪気なく誰かを傷つけてしまう前に

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 「ハーフの子みたい」と、うちの娘がよく言われる。それも初対面の相手に、おそらくは悪気なく。誰も幸せにならないコメントだと、本書を読んだ今ならば断言することができる。この「悪気はない」というのが厄介だ。こうした日常の一場面こそ、「ハーフ」という言葉に託された共通のイメージが再生産され、強化される差別の現場に他ならないのだから。

 

 差別とは、まずもって「一緒くたにすること」だと、岸政彦氏は『はじめての沖縄』に書いていた。あるいは、当事者支援の分野に「Nothing about us without us」という言葉がある。直訳すると、「私たちの関することで、私たち抜きのものは何もない」ということである。本書を読みながら、この二つの言葉を何度も思い出した。

 複数のルーツを持つ人のことを「ハーフ」と呼ぶべきか、「ダブル」と呼ぶべきか、あるいは別の呼び方をするべきか、それは当事者が決めるものだし、きっと答えは一様でない。「黒人系」のルーツを持つからと言って、皆がテニスやバスケットボールのトップ選手になれるわけではない。一緒くたにはできない。当たり前のことだ。

 

 自分自身の中に埋め込まれた思い込みを、根拠のない思い込みと知った上で、一つずつ捨てていくこと。まずはそこからだと、自身も「ハーフ」の母を持つ著者は呼びかける。途中、研究者として専門的な解説を施していく一方で、20人を超える「当事者」からの声も丹念に聞き取り、批評を下すことなく掲載している。誰かが全体を代表するわけではなく、ルーツは様々で、当たり前だがそこには多様な人生がある。

 それでも浮かび上がってくる共通の経験があり、それはどれもむごたらしい。いじめ、理不尽な職質、無断で触られる髪の毛、「日本語上手ですね」、「英語しゃべって」。逆にこれは気付きにくいなと思ったのは、多くの場合、彼ら・彼女らの親は「ハーフ」としての経験はしていない、ということである。理解者・共感者を家庭内にも見つけにくい時、頼りになるのはSNSだが、定番のリプライは「日本に人種差別はない」だという。一体どこに逃げればいいのだろう。

 

 急増する移民の視点からもう一つの日本を描いたのは、本書も参照している望月優大氏の『ふたつの日本』だったが、本書が聞き取り、書き留めているのは、「ふたつの日本の間に挟まれた、もう一つの日本」なのかもしれない。まずは声を聞こう。 

 

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著者:下地ローレンス吉孝
出版社:平凡社
初版刊行日:2021年4月21日