10年ほど前だろうか、渋谷駅前で初めてヘイトスピーチの現場に出くわした時、こんなことが公共の場で許されるのかと衝撃を受けた。まさに、ラッパー・ECDが「こんな世界があっていいわけがねー」とラップしたとおりだった。
しかし、私はそこで終わってしまった。疑問も、怒りも、深めなかった。それは間違っていたと、今ならば理解することができる。レイシズムに対抗する上で、不作為はすでに加担なのだから。
差別とは、単に私たちの「心の問題」ではない。差別する自由を許す「差別アクセル」と、それに抗う「反差別ブレーキ」のせめぎ合いの中で、レイシズムは常に条件づけられており、あなたも、私も、この社会に生きる限り、どちらかを担っているのだ。
そもそも、「レイシズム」とは何なのか。私は完全に誤解していたが、言葉の成り立ちどおり、まずは直訳して「人種主義(race+ism)」と覚え直すことで、いろいろなことがクリアになる気がした。
文中でも引用されている社会学者・磯 直樹氏の解説記事「〈人種は存在しない、あるのはレイシズムだ〉という重要な考え方」のとおり、「遺伝学では〈人種〉は否定されている」のだとすれば、レイシズムとは、「存在しない人種の存在をあえて信じようとする立場」であり、フィクションとすら言える。
それでもなお、レイシズムはなくならない。何が、レイシズムを正当化してきたのだろうか。
ミシェル・フーコーを読んだことがない私は、「権力」という言葉をかなり素朴に解釈せざるを得なかったけれども、特定の思想的立場や、制度や、レイシスト「そのもの」ではなく、それらを許し、助長する権力の全体がレイシズムである、というのが基本フレームだ。
そして今、レイシズムを助けるのは、何よりも資本主義だという。資本主義は常に、犠牲的な賃労働を必要とする。「生きるためにはやむを得ない」と信じ込ませた上で。そのためには、人と人とを分かつ境界線が必要だ。たとえフィクションであっても、是正が優遇に裏返るような、分かりやすい境界線が。
権力側のこうした戦略を、見抜かないといけない。BLM運動がそうしたように。しかし、日本は「それ以前」であると、本書は悲しみ、憤り、読者に問う。反レイシズムが無いに等しいばかりか、「日系日本国籍者」以外を日本人と見なさない、そういう社会で、新しい規範を打ち立てるために、あなたには何ができるかと。
******