1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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語りは奪われているのか?|『文藝』2021年冬季号「特集:聞き書き、だからこそ」感想

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 内容は想像以上に雑多。聞き書きそのものから、対談、エッセイ、論考など、形式もバラバラなら書き手の立場も様々だ。しかし、あくまで特集のタイトルに固執するなら、この問いに真正面から答えているものは案外少ないように感じた。

 聞き書き、だからこそ。この「だからこそ」に続く言葉は何だろう。人の話を聞いて、それを書く、ということ。この一見地味で、原始的な営み「だからこそ」可能になることって何だろう。特集の掲げる問いは、シンプルだがとても大きい。

 

 岸政彦が、自らもこう問われたという経験を踏まえ、こんな投げ掛けを持ち込んでいる。それなら「ビデオで残したらどうですか」と。冗談半分にも読めるが、全く冗談ではない。「だからこそ」を考えるなら、これこそが素朴にして最も根本的な問いではないか。

 

僕ね、内容を文字にしたとき、情報量が増えると思うんですよ。映像よりも文字のほうが増える。

 

 文字という、古典的なメディア。聞き手が語りの「現場」で目にするさまざまなものを、それは普通、語らない。語り手の表情や身振り、目配せ、テーブルや椅子、部屋の壁のことを、語らない。文字はただ、「それらも込々の、その場限りの空間で聞かれた語り」として、語り直すのだ。岸の言葉を借りるなら、「純粋な物語」として。

 かなり単純化すれば、「語り以外が語られないこと」が、ここでは「情報量が増える」と表現されているのだと思う。シンプルだが、特集のタイトルに応えた、鮮烈な試論として読んだ。

 

 せっかくの分厚い文芸誌である。もう少し、わき見をしてみたい。私が読んだ限り、少なくとも「収奪性」と「再現性」という二つの論点について考えることが可能だと思う。もっとも苛烈なのが、梯久美子の論考「声は消える」だ。

 

他者の経験を文字に移し替えることは、物語を奪うことにほかならない。

 

 語りの所有権。主体の境界線。これを犯しているという認識は、特に氏の場合、主たる取材相手が、配偶者によって自らの「語り」をあらかじめ奪いつくされた者であった影響も大きいように思う。

 この「収奪性」の論点はこれ以上回収されないのだが、語りを「言葉」すなわち「文字」としてのみ捉えるのではなく、語り手の声の響き、いわば空気を伴う「詩」として捉えるのが、ここでの結論である。

 氏にとって聞き書きとは、再現しえないものを、それでも再現しようとする試みとしてあるようだ。

 

 その意味で、五所純子の聞き取る語りも、文字だけでは再現しえないものとして、ある。氏のエッセイ「むかしのかたち」でそれは、文学的な自覚の下で「継ぐ」という言葉に昇華している。

 

その語りを、わたしは、語られないこと、語りでないものをふくんで継いだ。

 

 五所が「継ぐ」のは、語られた言葉以外の、発せられた声以外の、すべてを含んだ全体である。それを書こうという五所にとっては、「語りだけでは足りない」のだろう。だとすれば、氏の書く「嘘」とは一体なんだろうか。『薬を食う女たち』はぜひ読んでみようと思った。

 

 梯の議論を単純にまとめると、語りには「物語としての語り」と、「詩としての語り」があるということ、そしてそれを「書く」にあたって、前者には「収奪性」の問題があり、後者には「再現性」の問題がある、ということであろう。ここに五所のエッセイを重ねれば、「語りだけで語られるのではない」ということになる。

 ここで、それなら「ビデオで残したらどうですか」という冒頭の問いに、再びかち合う。もう一度、岸政彦といとうせいこうの対談「聞き手の責任をまっとうする」を読む。何かと高度化しがちな「物語」を揉み解し、いったんベタな「経験」として、実際的なコミュニケーションの中で捉え直そうとするのが岸である。

 

「何があったんですか?」と訊いて、「こんなことがあったんですよ」と話されて、「そんなことがあったんですね。大変でしたね」とか言ってまた聞く。ベタな事実を交換してるわけですよね。

 

 あるいは、氏の論考「聞くという経験」を読んでもいい。つまり、聞き書きの「収奪性」からは逃げられない、ということである。それは素朴に罪であるだけではなく、むしろ原理的な前提である。

 であれば、書くことそのものではなく、その語りが会話によってもたらされた事実から「下りてしまう」ことこそが罪なのだと岸は言う。それは強者の特権であると。

 

作品としての生活史は、聞くことの再現である。

 

 語りは、語られたのと同じくらい、「聞かれた」のである。その経験を「責任」と考える人々の地味で、原始的な営みによって、それがさらなる他者の前で再現される。私たちは、それをまた「聞く」。

 

 聞き書き、だからこそ。この特集のすべてを受け止めきれたとは思えない。上に書いたことと矛盾もするだろう。それでも、最後に思うことはこういうことだ。

 聞き書き。それはきっと、語りを奪わないための方法である。