1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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村上春樹『女のいない男たち』書評|Some Girls、あるいは長いお別れ

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 「まえがき」があることにまず驚く。こんなに慎重な作家だったろうかと思うほど親切な自著解題から入る本書は、著者の言葉を額面どおりに受け取れば、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」についての、コンセプト・アルバムである。

 

 それなら黙ってそのように読めばいいのだが、この前口上を読み、私は強い違和感を覚えた。コンセプトも何も、そもそも村上春樹とは、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」を一貫して書いてきた作家ではなかったか。なぜ、改めて題材として名指しされているのか。

 著者自身、その理由は分からないらしい。一つ言えるのは、ここでの男たちは、女性に象徴的に去られるとか、観念的に去られるとかではなく、とにかく通俗的に、即物的に、実際的に、ただ去られるのである。多くの場合、それは女性たちが「誰か他の男と性交すること」によってもたらされる。

 随所に自伝的要素をちりばめられた村上春樹的な男たちは、そのことに傷つくのだ。それも、とても深く。要するに、これは男たちを襲うミドルエイジ・クライシスの物語である。本書執筆時点で還暦を過ぎていた著者は、いま、このような物語を必要としたのだろう。男たちが、人間としての成熟や、人生の円熟を迎えることなく、女たちに去られゆく物語を。

 

 映画化された「ドライブ・マイ・カー」は、男と女の本質的な行き違い、みたいな楽チンな落としどころに向かっているようで気になったが、作中、女に去られた男(=家福)が披露する酒をめぐっての洞察を応用するならば、こういうことだ。「世の中には、自分に何かをつけ加えるためになされるセックスと、自分から何かを取り去るためになされるセックスがある」と。

 彼の妻には、おそらく後者のセックスが必要だったのだ。彼にはその合理性が想像すらできなかった。悲しい男だ。その意味でいくと、出色のサスペンス「木野」で女に去られた男(=木野)が手を貸してしまうのは、後者のセックスだ。以降、彼の心の空洞は何者かに狙われることになる。描かれるのは、自分の人生を決定できない不能感である。それもまた、著者が一貫して描いてきたものであるが。

 

 というわけで、『女のいない男たち』は例によって極めて村上春樹的な小説である。何のオチもないが、少なくとも私にはそうとしか言いようがない。

 

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著者:村上春樹
出版社:文藝春秋〔文春文庫〕
初版刊行日:2016年10月10日