Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

目取真俊『眼の奥の森』書評|死者は沈黙の彼方に

 この救いのない物語をいったいどのように受けとめたらいいのか、見当もつかないまま最後のページをめくり終える。ラース・フォン・トリアーの映画のよう、と言えば、伝わる人には伝わるかもしれない。苛烈で、執拗なまでの暴力描写がもたらす閉塞感と没入感は本作でもすさまじい。

 

 物語の起点となるのは、沖縄戦の序盤ですでに制圧状態にあった沖縄北部の小さな島で起きた、米兵4人による少女暴行事件である。身体を抉られ、心的にも深い外傷を負った当時17歳の少女はその後、悪夢やフラッシュバックに苦しんだに違いない。やむを得ず家にこもり人目を避けて生きる中で、いつしか島民や家族からさえも差別され、何重にも排除される存在になっていく。

 そして、生まれつき不得意なことが多く、島民からも家族からも馬鹿にされてきた漁師の少年が、たった一人で米兵への復讐を決行する。それは著者の言う「最低の方法」よりもヒロイックな直接の復讐であり、島民の怒りを暗黙のうちに代弁するものとして描かれているが、逃走の現場を偶然目撃した島民によって少年の潜伏場所はあっけなく米軍へと密告されてしまう。

 

 本書は第一に、この少女と少年のあいだの、時空を超えた魂の交差を純粋に、半ば幻想的に描いている。

 が、しかし第二に、カメラを何度も切り替え、暴行現場に居合わせた別の少女や、暴行に加わった米兵、あるいはこの出来事を平和学習の一環として現代の中学生たちに語り伝える女性(被害に遭った少女の妹である)、さらにはその聴衆の一人である女子中学生、復讐を決行した少年に降伏を呼びかけた区長や従軍の通訳者など、語りの担い手を重層的に配置することで、著者に政治的に共感するだけでは到底支持し得ない多義性を含んだ作品でもある。

 

 思い出すのは、作中でも言及のある、1995年に米兵3人が小学生の女子児童に性的暴行を加えた事件のことだ。著者はこの事件をめぐって、『ヤンバルの深き森と海より』にも収録された論評で、85000人が抗議のために集った当時に立ち返りつつ、その後の沖縄が辿った道筋に失望を隠さない。いまも辺野古の工事現場で闘う著者が案じるのは、「23年前の事件の被害者やその家族は、いまの沖縄、日本の現状をどう見ているだろうか」ということなのだ。

 

 ここで考えたいのは、著者が直近の取材で口にしている「死者は沈黙の彼方に」という言葉だ。ここでの死者とは、永遠の沈黙を強いられし者たちの比喩的な総称だと私は考えるが、著者の文学的誠実さは、「沈黙を強いられし者たち〈への〉眼差し」を深めることではなく、「沈黙を強いられし者たち〈からの〉眼差し」を自らに、あるいは沖縄に浴びせることにあるのではないか。思うに、著者を文学的にも政治的にも駆り立てるのは、この「見られている」という感覚である。死者に、あるいは永遠の沈黙を強いられし者たちに。

 『沖縄「戦後」ゼロ年』でこんな話が紹介されている。上記の事件が発生した1995年当時、沖縄市にある高校に勤務していた著者は、教え子の女生徒から、「先生達は北部の少女のことで騒いでいるけど、近くの学校でこういうことがあったの知らないでしょう」といって、やはり米兵に襲われ、妊娠した近隣高の女生徒の話を聞かされるのである。彼女は堕胎し、そのことを隠したまま退学したという。著者はおそらく、この女生徒にも「見られている」。少なくとも、見られる「べき」だと考えている。そうでなければ「戦後」は訪れず、「1995年」は終わらないのだ。

 

 これを踏まえれば、本作で描かれているのは、まさしく「永遠の沈黙を強いられし者たち〈からの〉眼差し」である。そしてそれは、「暴力を受ける側の視点」を直接的に描くことを必ずしも意味しない。むしろ、暴行を受けた少女自身の視点が最後まで描かれないことによって、それぞれの登場人物が「見られている」感覚をそれぞれに内面化していき、行動を変えていく過程が何かを問うように描かれているのである。

 現実にあり得たかも知れない、あるいは実際にあったのかもしれない「語られなかった被害」が、内々に処理されることによって「公式の歴史」から切り離され、時間の経過とともに「誰かが語らなければなかったことになってしまう歴史」となっていくとき、少女の痛みはどのように分有可能か、ということが、ここでは争われているように思う。政治と、文学と、オーラル・ヒストリーのあいだで。

 

 とはいえそれでも、著者の主張はあまりに明確なように思える。本書が描くのは、オーラル・ヒストリーの継承による痛みの分有「不可能性」であり、実力行使も含めた政治による米兵犯罪の解決「不可能性」である。だからと言って文学が勝利しているはずもないが、一旦は不可侵なものとして描かれた少女や少年の物語が、やがてどこまでも排除されていく様は、暴力的なアイロニーと言ってもいい。

 特に注目すべきは、時間を現代に移した、中学校での平和学習の描き方だろう。被害にあった少女の妹でもある語り手の女性は、「こういうことをみなさんに話すのはショックを与えるかもしれないけどね」と断った上で、なおためらいながら姉の身に降りかかった悲劇を語るのだが、いまを生きる若者たちにとって、そんな話は一秒でも早く終わって欲しい年寄の戯言でしかないのだ。

 女性を唯一勇気づけることとなった、一番前の席で熱心に聞いてくれていた少女が、実は彼女が日々さらされている暴力(いじめ)の一環としてそのような振る舞いを強制されていたに過ぎないことを、語り手の女性は知る由もないのである。今まさに沈黙を強いられている少女に向かって、永遠の沈黙を強いられし者の痛みを語って聞かせるという、絶望的なすれ違い。

 

 念のため繰り返すが、賛否ある「陳腐な教訓」めいた終わり方も含めて、作品全体が巨大なアイロニーだと思う。無数の「眼差し」を、沈黙の彼方に追いやり、あるいはお金と交換してしまった人々に向けての。そして、それをただ傍観している人々に向けての。読者はこの悪意を、あるいは「眼差し」を、どう受け取るのか試されているのだ。



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著者:目取真俊
出版社:影書房
初版刊行日:2009年5月8日
新装版刊行日:2017年5月29日

 

※読後の衝撃が大きく、上限文字数を大幅に超過していることを申し添えます。