Trash and No Star

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マイク・モラスキー『占領の記憶 記憶の占領』書評|沖縄 日本 アメリカ──占領とは何だったのか

 「占領」という言葉に含まれた暴力性について考える。その言葉が意味するところの実際の光景や、その場を支配していたはずの絶望や緊張を想像しようとする。「占領」があるからには、その前に戦争があり、「敗戦」という形での終結がある。戦争の一部であり、戦後の一部でもある占領。外国の軍隊によって社会をコントロールされるということ。いったいどのような経験なのだろうか。あるいはどのような経験として語られ、描かれてきたのだろうか。

 

 本書は、アメリカ出身の研究者による、日本の「占領文学」に関する文芸評論であり、比較文学である。

 占領文学とはその名のとおり、「アメリカ占領下での生活を描く物語」のことであり、著者はここで、芥川賞受賞作などの有名作品から、現在では入手困難な無名の作品までを並列に論じ、比較しながら、「文学という想像力のフィルターを通した時、日本の被占領経験はどのように再現されたのか」を問うている。

 その比較にあたって、導入される変数は主に二つ。一つは「ジェンダー(男性/女性)」、もう一つが「ナショナリティ(日本本土/沖縄)」だ。

 

 本書でも参照されている上野千鶴子ナショナリズムとジェンダー』の問題設定を借用して言うなら、この試みには二つの可能性があるだろう。一つは、すでに知られた正統的物語のアナザーサイドからの「読み直し」であり、もう一つは、まだ知られていない様々な女性の/沖縄の人々の物語の「掘り起こし」である。

 

 結論を急ぐなら、本書が見出すのは「要素としてはナショナリティよりもジェンダーの方が強く効いている」ということだ。それが日本本土の作品でろうと、沖縄の作品であろうと、「結局のところ、(中略)多くの物語は、男性によって書かれており、そして男性中心的視野で構成されている」というのである。

 沖縄との関連で言うなら、もっとも象徴的なのは買春まで含めた「性暴力」の描写であろう。大城立裕の「カクテル・パーティー」が、小島信夫の「アメリカン・スクール」が陥った日本/アメリカという二項関係を突破し、加害者と被害者の錯綜した関係を効果的に描き出していると認めながらも、結局のところ、そこで描かれる被害はあくまで家父長制をバックにした「父」にとっての象徴的被害に過ぎず、この作品が「強姦をめぐって展開しながら」、実際には「強姦はもっぱら男性主人公の被害者性を仕立て上げるための裂け目であり欠如であるにすぎない」と断ずる。

 

 この点は、娼婦の手記として出版された『日本の貞操』や『女の防波堤』を論ずる第4章でさらに追及され、女性の純潔や貞操が男性作家たちの手によって「性的な領土」として象徴化されてきたことを暴いていく。「日本本土・沖縄ともに、男性作家たちは敗戦と占領の屈辱的経験を女性への性的暴力という形で露わにしてきた」というわけである。

 無学を承知の上であえて挑戦的に言うが、フェミニズムの分野での蓄積を思えば、これはある程度予期された結果ではある。沖縄や基地の街からの「読み直し」については、言語に代表されるアメリカ文化との距離感や、松本清張「黒地の絵」などを軸に第3章で議論される人種差別の問題も含めて刺激的であったが、女性目線からの「読み直し」は先行理論の適用を確認したことにとどまっているように思えた。

 

 それならば女性作家たちは、占領期の女性たちをどのように描いてきたのか。白眉はやはり、第5章で披露される女性目線からの「掘り起こし」の方だろう。

 平林たい子「北海道千歳の女」を「日本の占領文学を考える上で欠かせない一作」とした上で、戦後間もない時期に警察と政府官僚が組織した特殊慰安施設協会(RAA)に対する挑発的な態度も読み取りつつ、家父長たちによって女性に課せられた「二重基準」を撹拌していく。

 見えてくるのは、占領そのものではなく、戦時下から続く女性に対する社会や家庭内での無数の抑圧形態であり、その中においては結婚も売春も変わりないという、これまたフェミニズムの分野では少なからず聞き慣れた、だが確かにラディカルな結論を導いていく。

 こうした抑圧の相対化は、「自国の指導者ではなく、他国の占領者によってもたらされた新しい自由」によりなし得たものと解釈できるだろう。女性に対して、必ずしも占領軍が新たな抑圧を生んだのではない。「アメリカ人占領者は、旧来の問題を表面的に一新したにすぎない」のだと本書は言う。

 

 先行の書評がほとんどないため、字数制限を無視してやや網羅的に書いてきたが、議論全体を概観するなら以上のとおりである。未読の作品が圧倒的に多かったが、「占領文学」を読んでいく上でのブックガイドにもなろうかと思う。

 

 一方、私が自分の中の問題意識としてもっとも気になったのは、「加害者の被害者性」に関する議論である。一方では、強姦された娘の被害者性を家父長として引き受けようとする男たちの動機を、「被害者性はいわば免罪を約束するものである」からだと見抜いておきながら、松本清張「黒地の絵」をして、「黒人兵は彼ら自身の社会における人種差別の被害者である」ことをもって加害者を擁護するのである。

 確かに、家父長たちが受けるのが象徴的被害である一方、黒人兵らが受けるのは人種差別というもっと直接的な暴力ではある。しかし、それで黒人兵らの犯した罪は多少なりとも値引きされるのだろうか。だとすれば、あくまで「加害者も被害者である」という論理構造だけを見た場合、黒人兵に対して同情を示すのとまさに同じ理由で、家父長たちの責任を解除してしまうことにはならないか。この点はよりシビアに検討されるべきであったように思う。

 

 この他、本書は第7章で現代の占領文学をピックアップしつつ、最後に目取真俊を論じて終わる。全体として、すでに述べたように比較文学であり、相対的には沖縄とジェンダーに比重を置いた構成の割には、「沖縄の女性作家」の作品にほとんど言及されないのは、本書の瑕疵と言うより、著者の言うとおりある意味では歴史の限界なのかもしれない。

 それでも本書が、沖縄に対して特別な関心を示していることにはもう少し言及しておくべきだろう。「沖縄を単純な『癒しの島』に回収できない側面が根強く残っている」、「少なくとも沖縄本島では、いわば『占領の影』がいまだに色濃く投影されている」、いずれも文庫版に寄せて2018年に加えられた言葉だ。

 

 と同時に、「アメリカ占領期の記憶は、日本国民の意識から大きく後退してきた」と、著者は現在の視点から書いている。事実そうなのだと思うし、本書が少なくともSNSでほとんど話題になっていないのもその証左かと思うが、いずれにせよ、「焼跡」とも「金網」とも遠い場所で暮らす人々がなすべきは、これらの論点をバランスよく消化した「傑作」文学の登場を待つことではないだろう。

 沖縄をめぐるフィクションと現実の絶えざる弁証法の中で、本土側の願望を投影しただけの「フィクション」が無自覚に強化してしまう沖縄にまつわる紋切り型をひとつひとつ否定していくこと。そして、目取真俊が長らくフィクションではなく「現実の側」に留まっている意味から目をそらさず、上間陽子が差し出した「海」を素手で受け止めること。そこから先に進んでいくことが簡単ではないとしても、何度でもその場所に立つしかない。

 

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著者:マイク・モラスキー
訳者:鈴木直子
出版社:岩波書店岩波現代文庫
初版刊行日:2018年7月18日