私たちがブラック・ミュージックと呼ぶ音楽の「黒さ」を、音楽家の肌の色以外のものに還元しようとする時、そこには何が残るのだろうか。
本書が見出すのは、アメリカ黒人固有の経験からもたらされる「ブルース」という感覚である。「黒人の魂の深み」というやや文学的な言葉でも表現されているので、イメージとしてはこちらの方が分かりやすいかもしれない。
「ブルース」は、アメリカ黒人の最下層によって受け継がれてきたと著者は言う。だから、本書は文学を題材にしては書けなかった。それは字が読み書きできる黒人たちの文化であり、著者の言葉では「黒人中産階級」の俗物文化だったのだから。音楽は必ずしもそうではない。
こうなると、本書が仮想敵とする相手は明確だ。それは白人らしさ、主流らしさ、中産階級らしさ、簡単に言い換えるなら「白さ」である。その白さによって薄められてしまうリスクから逃れるための抵抗が、ブラック・ミュージックを磨き上げた。これが本書の基本的な歴史観だ。
当然、「ブルース」の源流はアメリカ黒人の奴隷としての経験に結び付けられている。彼らとともに強制的にアフリカから持ち込まれた音楽が、過酷な生活のなかでどのようにして生き延び、変化し、世界中のポピュラー音楽の頂点に君臨するに至ったのか。本書が描くのはその「はじまりの物語」である。
ブラック・ミュージックの「黒さ」はアフリカ由来なのだろうか。あるいはそうかもしれないが、奴隷の子孫としてアメリカで生まれた世代の黒人にとって、アフリカは見たことのない想像上の故郷であり、現実的にはアメリカで強いられた「奴隷文化以外に故郷の文化の拠り所はな」かったことは考慮すべきだろう。
こうした、ルーツはどこかにあるはずなのに、そこへ戻る道がすでに絶たれている感覚。アメリカが強いる「白さ」にすべてを預けてしまうでもなく、想像上の故郷が示す「黒さ」を絶対視するわけでもない、この曖昧な漂流の感覚こそがむしろ「アメリカ的」だと私は思った。
冷静に読めば、鈴木雅雄氏の解説が最初に言及するとおり、素朴な本質主義にも思えるし、それほど出来の良い本だとは思わなかった。それでも、文章は檄文に近いテンションで叩き付けられ、最後まで勢いよく読める。
音楽に関する記述に集中できるので、やはりアメリカ黒人の基本的な通史ものを何冊か読んでから手に取ることを勧めたい。できればジャズもだが。
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