Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

岸政彦『ビニール傘』書評|人生はちょっとだけ寂しい

 読み終えたあとにじんわりと滲み出る、この気持ちを安易に感動と呼んではいけないような気がする。もっと本当の、もっと温かい、別の呼び方をしてあげたいなと思う。でもそれが何なのかが分からない。意図的に「文学者としての岸政彦」は遠ざけてきたはずなのに、あっけなくやられてしまった自分がいる。

 

 多くの人がまず、激しい視点の入れ替わりについて構造的な分析を試みるだろう。表題作「ビニール傘」では、時間軸やカメラを置く視点が予告もなく頻繁に入れ替わり、意図的に没入の回避が試みられている。「背中の月」でも時間軸がぐにゃりと行ったり来たりしており、まっすぐには読ませない。このはぐらかしのような構造をどう読めばいいのか。

 いま、思わずはぐらかしと書いたが、そう書いてみるとそれはそれで違和感がない気もするし、全く的外れな気もする。要するに、自分はこの作品に必要以上に分析的に接したいとは思っていないのだ。これはほとんど暴力的な感想になるが、視点が入れ替わったところで、何かが決定的に変わったようには思えないのである。

 ただそこにあり、気付かぬうちに交わり、気付かぬうちにまた離ればなれになっていく、あなたと誰かの人生。どこにでもある、似たり寄ったりの、全く異なる人生。そのような人生が、それでも同じ街で生きられている、ということ。うまく言えないが、本作が描くのはそんな感覚である。

 

 いや、もっと素朴に読んでもいい。宮崎駿は、児童文学のことを「やり直しがきく話*1」と呼んだが、ならば大人の文学とは、「やり直しがきかない話」ということになる。人生は取り返しのつかないことの連続だし、時間は決して後ろには進まない。そして、最後はひとりだ。ここにはそういうことがたくさん書いてある。

 もちろん、そんなことはとっくに知っているし、そういうことを伝える本や歌や映画はたくさんある。それでも、私たちはやっぱり寂しがって、誰かと雨宿りをしたり、やがてまたひとりになって、安いビニール傘で雨をしのいだり、人生の取り返せなさを思ったりしているのだろう。ここにはそういうことがたくさん書いてある。

 

 ああ、あそこに忘れてきたなと思い出しても、決して取りに戻ったりはしないビニール傘。自分が今までどこかに置き忘れてきたビニール傘は、誰かに使われただろうか。その人は拾ったビニール傘をなくさなかっただろうか。つい、そんなことを考えてしまった。

 

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著者:岸政彦
出版社:新潮社
初版刊行日:2017年1月30日

*1:宮崎駿『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』p.70