Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

岸政彦『図書室』書評|「世界の終わり」の終わりについての、小説みたいな映画

 誰かが映画化したらいいのに、とまず思った。というか、誰もやらないなら俺がやるで、と慣れない大阪弁で思った。まあ、すでに想像の中ではほぼ撮り終えているのだが。謎のウイルスで人類が滅び、世界が終わったあとの世界を、大量の缶詰を抱えながら歩く少年と少女の頼りない姿。「彼」に置いて行かれそうに感じて、思わず早足になる「私」。饒舌さと寡黙さを行き来する二人の姿を、引きの横移動でカメラに収めたらベタ過ぎるだろうか。

 いや、ベタでもなんでもいい。とにかく、私もこの子らと一緒に「地球」を見てみたいと思った。ただ「地球やな」としか言いようのない風景を撮りたいと思った。夕方と夜が混ざり合ったような河川敷の、あのススキの原を。あるいはそこから見える工場の煙突や、煙を。誰かが暮らす遠い街並みを。でも、二人が見たのはこれ「だけ」ではなかったはずなのだ。その直前の買い出しの場面の含めて、こんなに映画にしたくなる小説もなかなかないのではないか。

 

 というか、表題作の「図書室」、これは小説として書かれた映画なのかもしれない。ハイライトとなるのは、世界の終わりが終わる瞬間の安堵と失望が混ざり合う瞬間か、あるいは「40年後」の河川敷、防災倉庫、南京錠と「私」であり、そこをどう撮るかが映画全体の出来を決めるのは分かり切ったことだが、最後の最後に差し込まれるシークエンスの唐突さがまた絶妙だ。

 小説のほとんどをリードしてきた図書室や「彼」との逸話全体がそこで急に相対化され、全く関係のない人生の断片が「私」を幸福に包み込む。読者は、これがボーイ・ミーツ・ガールの物語なんぞではなく、50歳になった「私」を規定する大事件についての語りでもないことを思い知る。『ビニール傘』収録の二作ほど激しくはないが、こうした話が「逸れる」感覚が、著者が書く小説固有の文体だと思う。

 

 大きな出来事の只中なのに、それとは関係のない人生の断片が何の前触れもなく降ってくる。その記憶は「そんなに好きじゃなかった」男とともにあって、そいつはもうここにはいない。意味わからん。でも、そういうことってあるんだろうなとただ思う。

 それが波であれ、何であれ、何かに人生を肯定してもらったことがある、という感覚が深い余韻とともに広がる。そしてその出来事が自分に訪れたことの「必然性のなさ」におののく。自分はこのエンディングを岸流のハッピーエンドとして読んだ。

 

******

著者:岸政彦
出版社:新潮社
初版刊行日:2019年6月25日