The Bookend

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吉本ばなな『ミトンとふびん』書評|人生には「もうここにはないもの」がたくさんある

 見え透いた悪意の塊のようだったポン・ジュノ監督の映画『パラサイト 半地下の家族』の中でもひと際冷笑的で、露悪的だったシーンと言えば、妻を愛しているかと訊かれたIT社長の男が、半地下暮らしの男が運転する高級車の後部座席で浮かべた醜い微笑だろう。

 典型的なトロフィーワイフとして描かれる妻(公式サイトには「美しく、純真、若くて“シンプル”」とある)にトロフィー以上の価値はないことを暗に認めつつ、ではお前らが信じているその「愛」とやらはどこにあるのだと問うようなあの微笑は、なんともイヤな感じだった。

 

 吉本ばななの短編集『ミトンとふびん』は、あの微笑が代表するタイプの価値観に対するささやかな逆襲みたいな作品である。

 一編の長さはまちまちだが、ここでは皆、何かしらの喪失を抱えている。そして、それはもう起きてしまったことばかりだ。今さら、その喪失自体はどうすることもできない。そういう物語が6つ並んでいる。

 おそらくは意図的なのだろう。本作には、「喪失と再生」みたいなきちんとした言葉では収まりきらない、人間の適当さや曖昧さが溢れている。著者がここで描いているのは、何かを要約するような言葉を使ってしまっては、たちまち消えてしまうようなものだ。

 だから、この本に書かれている言葉は、この長さでなければならなかったし、このサイズと装丁でパッケージされなければならなかったのだと思う。それを他の何かで代用することはできない。その意味で、例えば「愛」という言葉すら、本作の望むものではないだろう。

 それでも、ここには確かに愛がある。あるいは、ここでの喪失とは、愛と呼ばれるものがかつて自分の近くに確かに存在したことの「記憶」なのだろう。だから、それは乗り越えるものでも、埋め合わせるものでもない。そういったドラマティックな行いに対する抗いのようなものが、ここにはある。

 

 『ミトンとふびん』は、そんな風にして、ドラマティックなものに対する冷笑とも、ドラマティックなものから来る過剰さとも距離を置いた場所で、穏やかに書かれている。

 だからと言って、ここに痛みがないことにはならない。時には、誰かの肩を借りたりもするだろう。ただ、かつてここにあった愛がそうだったように、その誰かがその誰かであるための必然性を誰かに承認してもらう必要はない。それを忘れないでいるための自分だけの方法が見つかれば、それでもう大丈夫だ。

 

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著者:吉本ばなな
出版社:新潮社
初版刊行日:2021年12月20日