Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

濱口竜介監督『悪は存在しない』映画評|すべてが何かの原因であり、すべてが何かの結果である

 きっとこれは繰り返されることになるだろうと瞬時に確信する、あまりにも暗示的な冒頭のショット。

 森の木々を地面から見上げる大俯瞰が滑らかに水平移動していくだけといえばだけなのだが、影絵のように浮かび上がる木々の黒い枝はあまりにも禍々しく、また複雑に絡み合っており、低音に寄った弦の不吉な音に身を委ねてそれらを眺めていると、木々の影の連なりそれ自体がひとつの生命のように、それ全体でひとつの「系」のように思えてくるのである。

 

 もっとも、そうした考え方は自然界ではむしろ当たり前のことかもしれない。食物連鎖を含む生態系は、気候や環境、あるいは何かしらの人工的な介入要素や偶発的な条件変化なども含めた「より大きな複雑系」を構成する一部でしかないとも言えて、そこに住む生き物たちは皆、自らの生命をそのシステムのなすところに預けているのだ。

 そこでは全ての要素が複雑に絡み合っており、仮に何かひとつの事象を取り上げてみたところで、それがいったいなぜ起きたのか、一番深い根っこを探ろうにも、本当の因果関係はきっと何も分からない。バタフライ・エフェクトのように、ある意味、そこでは「すべてが何かの原因であり、すべてが何かの結果でもある」からだ。

 あるいは、こう言ってもいいのかもしれない。「本当の原因」など存在しないのだと。それが本作のタイトル、「悪は存在しない」が意味するところなのだと私はストレートに解釈したが、おそらく結論を急ぎ過ぎているので、ひとまずはここまでにしておこう。

 

 地面から天を仰ぐような冒頭の大俯瞰は、まだ雪が残る山村に暮らす小学生の花(西川玲)が、父親である巧(大美賀均)に教えてもらった木々の種類を確かめるように、あたりを見上げながら森の中を歩く姿へと接続されるわけだが、仮にあれが彼女の視線であるならば、これが繰り返される時、いったい彼女の身に何が起きるのだろうかと、誰もが胸をざわつかせることになるだろう。

 さらには、劇中では二度、シカ猟と思しき銃声が山奥に轟くわけだが、一度目の唐突な発砲が遠い場所であることを受けて、男たちが「じゃあ大丈夫ですね」と漏らす安堵がまた、映画的にはあまりにも不吉なのである。そして、極めて象徴的なシカの水場。伏線とも呼べる、多くの暗示的な要素が次から次へと登場する。その意味で本作はまず、サスペンス映画である。

 

 だが、そうしたあまりにも不吉な予感を振り払うかのように、花を追いかけて森の中を急ぎ足で歩く巧を横移動でスムーズに追いかけるカメラが、森に視線を遮られた一瞬の断絶の後に、森の中で無事に落ち合うことのできた父と娘の姿を思いがけず収める時、画面を満たすのはほっとするような幸福感だ。

 巧は、自宅で使うための薪割りや、東京からの移住者夫婦が営むうどん屋のために雪解け水が混じった湧き水を汲んだりして一日を過ごしているのだが、作業に没頭するあまり、学童へ花を迎えに行くことを忘れてしまうことが常態化してしまっている。だが、森を知り尽くした区長を除いてはその危険性を諭す者はおらず、誰しもが、この親子のゆったりとした幸福感を微笑ましく見守っている。

 東京からのアクセスや、周囲の山々の様子からして、山梨か長野だと思われるその場所には、自然と共存する人々の慎ましい暮らしが、そのようにして営まれている。なるほど、全てはただの考えすぎで、不吉なことなど何も起こらないのかもしれない。

 

 物語の転機となるのは、ある建設工事に伴う住民説明会である。巧らの生活圏内である森の中に、グランピング場が作られるというのである(地名だけを差し替えたような「いかにもありそうな」雰囲気だけのプロモーション・ビデオが、それはグラマラスとキャンピングを組み合わせた新しい言葉です、と空しく説明することになる)。

 その事業を計画しているのが東京の芸能事務所であることに加えて、地下水やシカの通り道など周辺環境への影響や、火気や利用客の管理などがほとんど考慮されていないそのずさんな計画に住民たちは不信感を募らせる。案の定、説明会は決裂。暴動こそ起こらないものの、簡単には修復できない壊れた空気が会場に充満する。

 映画はそこから、住民の側から見れば抵抗劇、業者の側から見れば折衝劇のようなあらすじをたどり始め、芸能事務所側の内幕も描くことである種のコメディ映画として観ることができるほど面白くもあるのだが、しかし上映中、この喜劇は決して本筋ではないように思えてならなかった。

 そう、そうした「村落共同体的な価値観と東京的な経済合理性の衝突」という紋切り型が演出するのは、そうした劇映画としてのサスペンスや駆け引きではなく、あくまでも冒頭のショットで暗示した不吉さであり、異なる価値観で対立する者たちの邂逅は、冒頭から漂う漠然としたムードを「暴力の予感」というより具体的な形へと移行させる装置に他ならないのだ。

 実際、舞台は整ったと言わんばかりに、「何かが間違っている」という漠然とした不安を掻き立てながら、カメラは湧き水の汲み取りや、森の中の横移動といった、それまでの印象的な構図を反復し始める。残るは、あの大俯瞰しかない。

 

 4月26日に封切られたばかりの話題作について、これ以上、具体的な内容に触れることは控えておくが、最後に一つだけ言うのならば、もちろん、この「暴力の予感」は具現化してしまうのである。

 不条理と呼ぶほかない、その「ごく一部の例外を除けば絶対に起きないこと」は、いったいいかなる「悪」によってもたらされたのか。「これが影響したかもしれない」というものは数えればキリがなく、劇中、ある人物が述べた「水は低い方に流れる」という言葉が、では「易きに流れ」ていたのは誰か、という問いを立ち上げもするだろう。

 だが、すでに述べたように、彼らが生きる世界、その複雑系の中では、ある意味では「すべてが何かの原因であり、すべてが何かの結果でもある」のだ。あれをやめておけば、こうはならなかったかもしれない。が、それらはすべて仮定の話でしかないのだ。人々は、そうした「説明のつかなさ」と共存して生きてきたつもりだった。それが生きるということだからだ。

 

 村落共同体に生きる町の人々は、自分はそうした複雑系とは無関係だと思っている東京の人々を、その系の一部へと組み込む。というか、ここに娯楽施設を作り、その一部になるとは「本当の意味では」どういうことなのかを、それを忘れてしまった人々に本当の意味で分からせる。これはそういう映画である。そこに込められた激しさは、「花の母(巧の妻)の不在」の理由をも示唆し得るが、それは根拠のない推測に過ぎないのでここでは触れずにおく。

 いずれにせよ、いくつかの要素を「回収」しきらない、「開かれた最後」で終わる映画であるのは事実だが、それはエンディングの解釈に関する複数の可能性に向けて開かれているわけでは断じてなく、スクリーンの前に確かに存在しているそこの「あなた」を、この複雑に絡み合い、互いに影響し合うこの世界の複雑さへと飲み込む巨大な口として、ただ無慈悲に開かれているのである。

 

******

監督:濱口竜介
劇場公開日:2024年4月26日

 

youtu.be