Trash and No Star

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千葉雅也『センスの哲学』書評|はじめにリズムありき

 まず、「リズム」がある。「意味」はそのあとだ。それが、狭義の芸術鑑賞に当たっての基本だと、本書は言っている。

 そして、そこで身につけたリズム感を広く応用していくことによって――言い換えるなら、人生を広義の芸術として捉えることによって、人生の楽しみ方が根本から変わってくるかも知れない。それは過剰な「意味」からの解放である。その意味で、私はこれを「人生の楽しみ方ガイド」として読んだ。

 文体も滑らかで、頭のいいお兄さんがいきなり目の前に現れて、「ちょっとセンスというものについて考えてみたんだけどね」といったノリで、これまで考えたこともなかったような話をばーっと1時間くらいで聞かせてくれる感じである。複雑なところで(どこまで簡略化すべきか悩んで)少しだけ言い淀む感じもリアルで、口述が先にあるのではと思ったくらいだ。

 

 思えば、世間では「反意味」の重要性を説く文脈で「考えるな、感じろ」などとよく言われるが、では何を感じればいいのか、という話だ。単に「フィーリング」とされがちなところを、本書は妥協せず、理論的に整理していく。

 思い切って要約してみよう。物事の奥底にあるのが「意味」だとすると、それに対置されるのが、意味よりもはるか手前(ちょっと昔の言葉でいうと「表層」というやつだろうか)にある、「それ自体の面白さ=強度」であり、その時間的・空間的な移ろいが「リズム」である。

 さらに、それが複層的に進行するようにイメージできるものがリズムの「うねり」であり、少なくとも芸術鑑賞における「センス」とは、こうしたリズムのうねりを感じ取ることのできるセンサーのことである。

 物事の奥底にある(ように思える)せいか、「意味」の方が深くて重要、と思われがちだが、そうではない。そもそも「意味」なんて本当はないかもしれないのだ。だが、「リズム」を感じることはできる。それが身体性に依拠している限り、「リズム」はなくならない。それがゴールであり出発点なのだ。

 

 これは極端な見方かもしれないが、いま、おそらくはSNS的な、もしくはポリティカル・コレクトネス的な圧力の元で、何かしらの表現や芸術、人の振る舞いを、ある単一のメッセージへと還元させて、素朴に政治的な評価を下すというのが主流になっている(ように思える)。皆、作家が同時代の社会状況に対して「何かを言おうとするために」作品を作っていると素朴に思い込んでいるのである。

 そこまで行かなくとも、「この作品が言わんとしていることは要するにこうだ」ということを人はやりがちである。そこに届かないとき、「この小説(映画)、何が伝えたかったのかぜんぜん分からなかった」という感想がTwitterなんかに大量に並ぶことになるだろう。裏返せば、何か明示的な「メッセージ」が解釈可能な場合、その小説なり映画は「共感」を呼ぶことになる。

 

 しかし例えば、映画批評に少しでも関心のある人であれば、「映画を観ないでも言えるような倫理的な価値判断」のようなものを、わざわざ作品に向けて言ったり批評してはいけない、ということは常識中の常識である。

 本書の第5章が解説するように、映画とは結局のところ、断片的なショットが作家の何かしらの意図や癖などによって、「結果として、たまたまそのように」並んでいるに過ぎないからだ。そこに「ストーリー」のようなものを見い出すことが可能であっても、その映画があなたに飼い慣らされたことにはならない。「この映画、何が言いたいのか全然分からなかった」などと言う権利自体、あらかじめ奪われているのである。

 むしろ、わからなさこそが快楽に転じていく瞬間が、映画にはある。実際、著者がジャン=リュック・ゴダールを引き合いにして語る「意味が切断されることのかっこよさ」は、例えば日本映画の巨匠・小津安二郎の映画に見られる「無人ショット」に見出すこともできるだろう。

 シークエンスとシークエンスの間に挟まれることの多い、固定で撮られた街並みや風景のショットを指すのだが、それは時に「もののあわれ」みたいなものに寄せて「日本的」と評されるが、もちろんそのような「意味」に捕らわれてしまうほど映画はやわではない。小津的な反復に対する「意味の切断」を、あるいはその切断も含めた全体を「小津的なリズム」として、そのまま楽しんでしまえばいいのである。

 

 モンタージュから論理的に浮かび上がるストーリーを追いつつ、小津的リズムが生み出す映画的快楽を享受すること。ここでは一例として、個人的に親しみのある映画について述べたが、もう少し一般化して、こう言い換えることもできるかもしれない。今は「ポストモダン」などとよく言われるが、その歴史的条件を知らない人が増えて、素朴に意味化し、シリアス化してしまっている時代である、と。

 なので、まずは「モダニズム」を再度徹底することが処方箋になり得る。それはアート史においては「フォーマリズム(形式主義)」と呼ばれるもので、要するに、物事の裏側を「解釈」したり「考察」したりする前に、まずは物事を表側から「そのまま」見ることである。「センスが良くない」というのは、「意味への囚われ」のような状態に陥っているわけだ。そこでは「リズム」が失われてしまっている。

 本書はそうした文化的な堕落への積極的な介入を試みる、その意味においてのみ極めて政治的な書である。

 

 そういえば、本書を買いに書店に寄った時、たまたま女性の雑誌コーナーで「センスの磨き方」というムックが目に付いた。人に「素敵」と思われるにはどうしたらいいのか、を解説した内容なのだろう。あるいは、平積みコーナーでは『「育ちがいい人」だけが知っていること』という本も目に付いて、帯には「今からでも、育ちは良くなる!」とあった。

 別にそれで売れるなら売れていいと思うが、本書を読んだ後では、ああいった類の試みが、モデルに対して「届かない」ズレに訴求しているビジネスモデルだということがよくわかるだろう。そのモデルは、永遠に遠のいていくばかりなのかもしれない。

 

 一方、本書の到達目標は、少なくとも「センスがいい」という状態がどのようなものかを理解することである。それは「リズムを感じるセンサーのことである」とはすでに述べた。あとは、「自分が生み出しているリズム」をつかむことである。それは何かに対して足りないのではなく、むしろ「余っている」はずだ。

 それを受け入れ、できるならば肯定すること。本書が「全体として」言っていることがもしあるのだとすれば、きっとそういうことである。すでに述べたように、それは人生を楽しみ、世界の見え方を変えることだ。

 

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著者:千葉雅也
出版社:文藝春秋
初版刊行日:2024年4月10日