
誰にRTされるでもなく地道なアクセスが続き、想定外の読者に恵まれることになった、蓮實重彦『映画の神話学』に関するレビュー。
あるいはその前時代的な読み方をめぐって、映画狂の皆さんに嘲笑されていただけなのかもしれないが、個人的にはやはり、千葉雅也『センスの哲学』の影響を強く感じた。同書が蓮實重彦を直接紹介していたことに留まらず、その主張のコアが、かつて「表層」とも呼ばれた「意味以前」の場所に留まり、まずはリズムやうねりといったレベルで芸術との接触を試みることにあったからだ。
すでに紹介したように、それはそれ自体が事件を構成しうる映画との蓮實的邂逅、その基盤をごくシンプルに要約したものでもあった。
だから、『センスの哲学』との共鳴がもし本当にあったとすれば、何の後ろめたさもなく映画を「動く物語」と見なし、それを早送りで観る人たちがいる一方で、「そうではない」観方を模索してみようとする人たちも一定数いる、ということなのだろう。それはきっと喜ぶべきことに違いない。
そうした人に薦めるべき批評家が蓮實重彦で正解なのかは私の知るところではないが、少なくとも著作のセレクトは正しかったのではないか。なぜなら、『映画の神話学』は、ざっと数えて300ほどの作品に言及する内容でありながら、何にも捕まらずにただ疾走し、「映画を撮ること以外の方法で映画について何を語り得るか」を問うよりも自ら実践する、「映画総論」のようなものだったからだ。
それは処女作としてあまりにも神話的な内容であったし、蓮實重彦との事件的邂逅を体験してもらうのにあれ以外の選択肢はあり得なかっただろう。
だが、『映画の神話学』が蓮實にとって映画方面での初の単著となったのは、1978年当時、筑摩書房の出版活動が業績不振のためしばし中断されていたことによるものだということを、結果としては2作目となったこの『映像の詩学』を読み直すなかで知った。
もっとも、偶然の産物に過ぎないとはいえ、内容からすればむしろ正解だったと言うべきだろう。もしそんな人が今どきいればという話だが、これから蓮實の映画本を時系列に沿って読んでいこうという人がいた場合、まずは一番大きなところから入って、より具体的なレベルでその批評理論がどのように展開していくかをその後の著作で確かめられるからである。
実際、この『映像の詩学』は、フリーキーな『映画の神話学』とは連動しつつも性格の異なる、数名の映画監督をめぐって展開していく実証的な「作家論」なのだ。もちろん、『映画の神話学』でもゴダールやヒッチコックが特別な扱いを受けていたのは明らかだが、本書ではまず「巨匠」という直截的な括りによって、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、ジャン・ルノワールといった、著者にとってのBIG 3が明らかになるのである。
いま、便宜的に「作家論」という言葉が出たからといって、ここで「作家主義」なる言葉との距離や異同をいちいち検討しているほどの余裕はない。
少なくともこれだけは強調しておきたいのは、確かにこれが作家論である以上、その映画作家の「主題体系」や「説話技法」の分析がなされるだろうし、そこに千葉の言う「身体の癖」のようなものを見い出していく作業が地道に進められることにはなるだろうが、そこで見出される「主題的一貫性」のようなものが、決して作家という特権的な立場の人間が特権的に披露しうる内面や思想の「表現」などではない、ということである。
そうではなく、「画面に映っているものをただ映っているとおりに見る」という無償の行為のなかで、それでも映画の表層で行われる運動の連なりによって、微かな既視感を伴ってどこからか漂いだしてくる残像のようなものが、その作家にとっての消せない固有性であり、つまりは「身体の癖」であり、こう言ってよければ「主題」だと本書は捉えるのである。
だから、映画の時間的な持続を許すための口実に過ぎない「物語」とやらは、その充実した語りの程度によって文学のように称えられるべきではなく、あくまで上記の意味での「主題体系」との有効な連動性によってこそ測られなければならず、その時に初めて、物語の映像化ではない映画としての「説話技法」が辛うじて見えてくることになるのだ。
例によってかなりおぼつかない手つきではあるが、本書が展開する「作家論」に触れていく上での前提をざっと要約するならば、だいたい以上のようになる。より簡単に言えば、映画監督というものは、必ずしもあなたに「何かを伝えようとして」映画を撮っているわけではない、ということでもあるだろうか。
もちろん、そういう人がいてもいいと思うし、実際、そのような映画もあるだろう。私だって、映画から何かメッセージのようなものを受け取って勝手に泣いたことはある。今はただ、「そうではない映画」、少なくとも「そうではない映画の観方もある」ということだけがなんとなく伝わればそれで十分だ。
では、この『映像の詩学』においては何が「主題」たりえているのだろうか。
それは例えば、ジョン・フォードの映画を満たす「帰り着くこと」という行為であり、女たちの「翻る白いエプロン」であり、ハワード・ホークスの映画で行われる「往復運動」であり、その復路の詳細な検討によって見出される「逆行」であったり「捕獲」であったり「交換」であったり、それによって消失する意味というものの「透明性」であったり、あるいはジャン・ルノワールの映画において再定義される「生なましさ」という概念であったり、偽りの距離の消失という「触覚」的な感覚であったりする。
そして、著者にとってとりわけ大きな存在であろうフォードで言えば、そのエプロンの「白さ」が女から男へと移行していくことに、あるいはその「白さ」そのものが変容していくことのうちにどのような演出効果を見い出すかが、その作品の、ひいては映画作家の「説話技法」を考えることになるだろう。それこそが、本書が展開していく「作家論」である。
これだけではピンとこない人も多いかもしれないが、少なくとも自分のような映画初心者からすれば、こうした論考によって、それまで考えもしなかった、というか視界に入っているはずなのに意識すらしていなかった題材や運動が、新たな「体系」へと還元されていく過程は手品を見ているようなものである。
はっきり言って、一般的には『荒野の決闘』で知られるフォードの映画を観て、「白いエプロン」について体系的に考えようとする人はまずいないだろう。しかも、ちょうど千葉が「下からのマウンティング」と評したように、わざわざ「凡庸な通俗的解釈」を羅列した上ですべて否定していくので、これも戦略といえば戦略なのだろうが、映画を実際に観た人ならばわかるように、どれも並大抵のレベルの逆張りできることではない。
もちろん、基本が作家論であり作品論である以上、そこで分析される具体的な作品を観たことがあるか/ないかで受け止め方も相当変わってくるだろうが、自分も一つ一つの作品のディテールまでは覚えていない状態で通読できたし、そもそも未見の作品もいまだ圧倒的に多いことを差っ引いても、やはり面白かった。「映画をこういう風に観ることが可能なのだ」という驚きが古びないからである。
このほかにも、「物語」と同じくらい、著者が映画から頑なに遠ざけたがっているものがあるとすれば、それは「写真」に他ならない、という論点や、具体的な作家論であるはずの本書が、最後の章でゴダールを論じ始めた途端、次第にフリーキーな「映画総論」へと回帰ないし拡張していくのは、やはりゴダールゆえの必然と言うべきだろうか、といった論点も本来はここで検討すべきなのだが、残念ながらそのような余力はまったくなくなってしまった。
それらについては、おそらくまたどこかで検討できる機会が訪れるだろう。ここでは差し当たり、この無軌道な文章のまとめに代えて、本書が全体として言っているであろう示唆のようなものを書き留めておく。極めて逆説的なのだが、それはきっとこういうことだ。「映像的な饒舌さ」が、必ずしも「映画的充実」に直結するわけではない、と。
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