(画像は公式サイトから借用)
僭越ながら、「想像していたよりもはるかに良かった」と、まずは言わねばならないだろう。
実際、アメリカ占領下の沖縄が舞台で、藤純子が主演の東映仁侠映画と聞けば、その組み合わせの意外性に興味を引かれこそすれ、そこで戦後沖縄の精神性のようなものが語られようなどとは思いもしないだろう。それが、「東映の仁侠ものだからこれくらいだろう」というラインも、「本土制作の沖縄ものだからこれくらいだろう」というラインも軽く越えてきたのだから、驚かざるをえなかった。
躊躇なく傑作と呼ぶにはいささか抵抗があるものの、なぜ人はそれでも沖縄を語ろうとするのか、ということに興味がある人には十分におすすめできる内容だと思う。
もっとも、本作が最終作らしい『日本女侠伝』シリーズに関してはまったくの未見であったのだから、本来はこんなエラそうなことを言えた立場ではない。それでも、シリーズのほとんどの作品を山下耕作が監督し、藤純子が主演、その相手役を高倉健や菅原文太が務めたということから大雑把に推測すれば、まあ、要するに定型的な仁侠映画なのだろうといったくらいの見当はつくし、年代・キャスト的には『緋牡丹博徒』シリーズの姉妹作といった位置づけ以上でも以下でもないのではないか。
もちろん、そこは加藤泰が監督した『花札勝負』などの傑作が生まれた世界ではある。それでも、こういったジャンル映画には、芸術的な自由度よりも脚本的な制約が大きく存在していることは言うまでもないことだし、あくまで物語というレベルで捉えれば、藤純子が属する善良な勢力に対する敵対勢力からの嫌がらせや理不尽な暴力がまずあり、それに対する映画の主役に相応しい忍耐が辛抱強く描かれたりするわけだが、ある地点においてそれも決壊、最後には「復讐と成敗」が待っているというのがひとつのお約束である。
だから当然、本作鑑賞に当たっても、藤純子が敵対する暴力組織にほぼ単身で乗り込み、仁義を切るかわりに放つ「死んで貰いますばい」などといった決め台詞に痺れたりしながら、予定調和を予定調和として楽しむことになるのだろうと高を括っていたし、舞台が沖縄といっても、せいぜい青い海や生い茂る緑なんかがロケーション的に必要だったのだろう、くらいにしか思っていなかったのだが、映画の冒頭、沖縄戦における「鉄の暴風」がいきなり映し出されるのだから黙って見入るしかなかった。
もちろん、こうした断りを入れること自体が、沖縄を舞台に勝手なフィクションを描く上での免罪符なのだと言うこともできるだろうし、復帰運動の盛り上がりを見込んでの山っ気があったのかもしれない。そうだとしても私は、この時代の文化人が多かれ少なかれ、戦後沖縄社会の物語を沖縄戦から始める程度の問題意識は当たり前に持ち合わせていたのだと、不思議な感動を覚えた。
何度だって繰り返すが、私たちは、沖縄県知事と面会した官房長官が、「私は戦後生まれなものですから、歴史を持ち出されたら困ります」と言ってのける世界に生きているのだ。あるいは、著名人や大手出版社による沖縄差別やデマの流布、再生産、悪意や冷笑の暴力的な発露だって一向になくならない。ここ数年の沖縄関連のドラマや映画だって、一部の例外を除けば極めて一方的なものだった。
そうした現代の有り様と比べれば、こうした時代の娯楽映画に見られる「外形的で、義務的ではあるかもしれないが、それでも示される最低限の礼節と理解」を私はとても羨ましく思う。もちろん、本土からのアプローチとしてそれが本当に正しいのかはまた別の問題ではあり、この点については余裕があれば後述することにしたい。
そろそろ、物語の筋を紹介しておこう。
藤純子演ずる「ゆり」は、沖縄戦で両親を亡くした運送会社の跡取りとして、社員を食わせるため、時には米兵相手にいかさまの博打を仕掛けながら戦後の沖縄社会を必死にサバイブしている。自身も学徒動員の生き残りであるのだが、鉄の暴風が吹き荒れる中、頼りなく身を寄せ合うガマで一時は手榴弾による自決を覚悟するものの、ある日本兵の説得によって思いとどまり、奇跡的に生き延びることができた過去を持っている。
ゆりに形見の時計を託し、ガマを飛び出し天皇陛下のために玉砕しに行ったその日本兵こそ、言うまでもなく菅原文太が演ずる「中上」であり、その苛烈な戦争を生き延びた二人は、アメリカ占領下の沖縄で奇跡的な再会を果たすことになる。ゆりは、スクラップの闇流しで儲ける本土系のヤクザ、岩松と敵対する運送会社の生意気な女社長として。中上は、本土で引き起こした揉め事のほとぼりが冷めるまでのあいだ、異国の軍隊が占領する南の島に身を隠しに来た岩松組の客人として。
あの戦争を生き延びた奇跡と、こうして図らずも再会できた奇跡。そして二人を分かつ、暴力組織の横暴と計略。加速する運命。書いているこちらが思わず赤面してしまうほどベタなメロドラマが、ここでは展開されている。『沖縄。人、海、多面体のストーリー』のレビューで批判的に類型化したような、まさしく過度に純粋化された恋愛的風土としての沖縄が、ここでも美しい海辺の夕焼けなどを惜しげもなく提供しているのだ。
しかし、これ以上は望めそうもないそうしたロケーションの中で、中上の遠回しの求愛をゆりがキッパリと断ることで、本作は沖縄戦を出汁にしたメロドラマから静かに逸脱していくこととなる。もちろん、任侠映画において藤の秘めたる思いがかなったことなどないわけだし、これはこれでお約束ではあるのだが、東映仁侠映画といえど、こうしたすれ違いを「言葉」ではなく「視線」で描く映画的努力はしてきたはずだ。それが、ここではあえて明確な言葉で二人のすれ違いが強調されているのだ。
事実、ガマで生き永らえたあの日から思ってきた相手を前に、それでもゆりが中上の思いを受け入れられないのは、ガマで形見の時計を託された男がヤクザになってしまったからでも、敵対勢力に属する客人として突然現れただからでもなく、中上が他ならぬ「本土の男」だからなのだ。
ここでは、本土の人間は「ただ沖縄を通り過ぎていく人たち」という風に表現されているわけだが、「ただ通り過ぎていくだけの男」を、ゆりは決して受け入れない。映画を政治的に、ないしは象徴的にだけ観ることはあまり好みではないが、しかし言うまでもなく、ゆりは沖縄的なものの態度を代表する存在として描かれているのだろう。
沖縄戦をメロドラマのてこに利用しつつ、お膳立てした舞台で二人を決定的にすれ違わせること。こうした拒絶の表現が、戦後沖縄社会のハードさから来ていることを、軍パンにサングラスといったミリタリールックの、いつもなら堅くまとめているはずの豊かな黒髪をなびかせる藤を見に来た観客に向けて語ってみるだけの実直さを、本作は持ち合わせていたのだ。
念のため言い添えておくが、本作における沖縄は、ただ都合のいい恋愛的風土としてのみ描かれているわけではない。
途中、沖縄の土地に眠る不発弾や日本軍の未使用弾を掘り起こし、市場に流すことで、絶望的貧困に喘ぐゆりの故郷の人々が生活費を工面する描写があるのだが、それは鉄屑を売って生きたという、戦後沖縄における命がけの生活をトレースしたものだろうし、そこに目をつけた岩松組による現場の独占や、住民を酷使した強制労働は、又吉栄喜の短篇「ギンネム屋敷」などでも描かれた、日本軍による沖縄戦前後の徴用や、米軍による「銃剣とブルドーザー」を十分に連想させるものだ。
こうした暴力を再現する先に、何が待っているのか。すでに相当古い作品であるとはいえ、事の顛末すべてをここに書くことは控えたいが、西部劇における復讐がそうであるように、ここでの復讐も当然執行されるし、最終的には決死のところで立場が反転し、他ならぬガマで敵対勢力の親分を追い詰めるという構図には溜飲のさがる思いもするだろう。
それでも、本土日本の観客は、ほとんど心中に近い二人の殴り込みや、仁侠映画らしいキメ台詞もなく始められる死闘の、ともすれば叙事詩のような外形的な美しさに惑わされることなく、そこに至る前の、直視に耐えないその暴力こそを、加害の側から見つめなければならないだろう。当時そのような受容のされ方をしたのかまでは分からないが、監督や脚本家(担当はトップ作家の笠原和夫だ)の思惑はそのあたりにあったのではないか。
言うまでもなく、監督と脚本家はある種の自己否定としてこのような拒絶の物語を準備したのだろう。後年、目取真俊が「仕事が終われば彼らは次の素材を探して別の場所に移る」と表現した人々と同様だという自覚が彼らにはあったはずだ。制約の多いシリーズものであることをさっ引いても、エンタメ作品としてはこれ以上の「政治的な正しさ」は望めないだろうと思う。
とは言え、その徹底した正しさは同時に、良くも悪くも、以前やや距離を置いて取り上げた大江健三郎の『沖縄ノート』を思い出さずにはいられなかった。誠意を尽くし、「沖縄側からのドラマ」を作り、「沖縄に寄り添おうとする本土人」のようなものを描くことが、何かの贖罪になるのだろうか。沖縄による拒絶を本土側が描く、いわば本土による本土批判ということで、それを倫理的な自己満足と言うこともできると思う。
ここをどこまでシビアに考えるかは、かなり難しい。が、政治的に正しいことが、いつ、誰にとっても正しいかと言えば、やはりそうではないと思う。逆に、本土からやってきた完全ではない雑誌ライターを主人公にしたからこそ、ドラマ『フェンス』は誠実さを獲得していたとも言えるのだから。これは今後の宿題としたい。
さて、つい象徴的なものにばかり着目した内容になってしまったので、「映画」的な素朴な感想も、最後に付け加えておく。
まず端的に、車の走行を伴う撮影はすべて素晴らしかった。右側走行の歴史もさりげなく紹介しながら、軍パンにサングラスといったミリタリールックの藤がハンドルを握って何度も疾走する。これはそれこそ、『フェンス』にはなかった豊かな運動性である。
一方、画面に時折写り込むハイビスカスが、藤の背後に透けて見える「緋牡丹」の鮮やかな赤色と微かに連動しながら、二人を見守っている構図は理解できたものの、日本兵の美化が見られるという以前に、本作の主題である「沖縄の拒絶」という圧倒的な距離の演出が、しかし映画的な技法によって達成されていないことこそが、映画としては歯がゆかった。
さすがに話がまとまらなくなってしまったが、最後に繰り返しておこう。本作を「沖縄のこころを理解した傑作」などと単純に評価することはできない。それでも、なぜ人はそれでも沖縄を語ろうとするのか、ということに興味がある人には十分におすすめできる内容だとは思う。
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監督:小沢茂弘
劇場公開日:1971年11月19日