
(画像は公式サイトから借用)
ここでもまた、「沖縄のこころ」のようなものが、仁侠映画を通じて語られている。もしくは、騙られている。だから多くの点で、『日本女侠伝 激斗ひめゆり岬』(1971年)に寄せて書いたことをここでも繰り返すことになると思うのだが、本土制作であることをいったん措いておけば、題材が暴力組織の抗争であれ、目的が東映実録路線の延命であれ、ここでは、沖縄の深いところに立ち入った切実なものが表現されているように思う。
あるいは、そうした評価自体が沖縄の過剰な対象化なのかもしれないが、その特別な関心を取り払った場合でも、狂犬・国頭を演じる千葉真一のダークヒーローとしての魅力は、たとえば『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)における大友勝利にはわずかに及ばずとも、国頭の兄弟分・中里を演じる松方弘樹が最後に決行する悪魔じみた殴り込みや、作品全体に漂う行き詰まり感、深い諦念のようなものは、まさしく仁侠映画の墓場と呼ぶに相応しいあの『仁義の墓場』(1975年)に匹敵するものだと断言するくらいのことは許されると思う。
とはいえ、実はこの映画はこれまでに二度観ているのだが、なかなか感想を書く気になれずにいた。書くべきことが多すぎるのだ。
もっとも、Wikipediaなどの情報を鵜呑みにするならば、ほとんどの場面が沖縄以外の場所で撮られてるらしいのだが、それだけをもって本作が沖縄映画ではないと言いたいわけではなく、あるいは『日本女侠伝 激斗ひめゆり岬』の評でも書いたような、ジャンル映画としてのお約束がどうのこうのという分かりきったことをわざわざ繰り返したいわけでもない。
ましてや、これが特定の監督のもとで撮られている以上、映画というフィクションとして提示されているのだという建前を理解するくらいの嗜みはあるわけで、この「実録」もののベースになっている史実を事細かに追ってみたいというわけでもない。
では、なぜ感想を書く気になれないのか。理由はシンプル。ここで象徴的に描かれる本土日本への憎悪が、あまりにも強烈だからである。
いや、正確にはそうですらない。話がややこしくなるのは承知でやはりこの話を繰り返すしかないのだが、憎悪の対象であるはずの本土の側が、ある種の自己否定として、その憎悪を自ら撮ってしまっているからである。その理解のよさや周到さが、私をかえって躊躇させる。
仮に、これを沖縄への暴力、すなわち文化的な搾取と取るなら、沖縄への理解どころか、ここには沖縄を軽んじるこころこそが表出していると言うべきなのだ。が、そう批判的に断ずるには惜しいほどの熱量が込められていることも、また間違いない。
そう、この熱量というのはいつだって厄介だ。来年公開されることになるであろう、真藤順丈原作の映画『宝島』にも、原作と同じような熱量は込められることになるだろう。だが、その熱量とやらは何かの免罪符になるのだろうか。そこは冷静に考え続けなければならないと思う。
もちろん、一本の映画を前に、ここまでぐるぐると考える必要はないのかもしれない。実際、本作が描くのは暴力組織同士の抗争であり、あるいは暴力組織内の覇権争いではあるのだから、あくまでもその筋の中で作品の是非を考えるべきと言うこともできるだろう。
だが、千葉真一の演ずる国頭が決して手放すことのない、ドス黒いマグマのような反ヤマトの精神の前では、それらも物語を回していくための仕掛けとしか思えず、観終わってからの時間が経てば経つほど、やはり国頭の死を描く叙事詩という印象ばかりが鈍く輝くのだ。ただしそれを美しいなどと表現することは慎みたいと思う。国頭の最期は、その生き様ほど偉大なものではないからだ。
かなり先走ってしまったので、一応、話の筋も紹介しておこう。
舞台となっているのは、本土復帰直前の沖縄である。少なくともこの映画を観る限り、統治者がアメリカから本土日本へと戻ることをめぐっては、期待感よりも警戒感が強かったようだ。国頭や中里らがまとめる組織においても、本土組織の侵入に備え、敵対する県内勢力と合流するなどの準備を整えていた。
が、それまで組織の内外で苛烈な覇権争いを演じてきた暴力組織がすんなり融和するはずもなく、合流組織「琉盛会」の立ち上げは、様々な思惑と計略が渦巻く新たな戦場を準備することとなり、沖縄内部での分裂を激化させもしたのだ。
内部的な対立の火種は、まず第一に、組織員の貧困である。当時の沖縄経済の状況を反映してもいるのだろうか、組織全体が貧しくなり末端までケアが行き届かない中、派閥間の緊張関係は日に日に激しくなっており、掟破りである縄張り荒らしなども横行するようになる。
だが、なんといっても最大の対立要因は、将来の統治者と言っても過言ではない本土日本にどこまで対抗し、どこまで妥協していくか、という一点である。打算的な融和派が組織中枢で台頭する中、それでも徹底的な抗戦を主張し、「戦争しようじゃねえか」、「俺たちはアメリカ相手にホンモノの戦争してきたじゃねえか」などと息巻く国頭は、次第に孤立していくこととなる。
決定打となるのは、行きつけのキャバレーでデカい顔をしている本土系組織の幹部をその場から追い出すばかりか、宿となるホテルまで追いかけ、容赦なく轢き殺してしまう事件である。そこから情勢は一気に激化していくのだが、組織内の派閥争いと、沖縄内部での組織同士の駆け引き、そして本土組織も交えた全体の計略といった緊張関係が複雑に絡み合い、ある種の政治ドラマとしての厚みが出ている。
相当に古い映画だとはいえ、事の顛末を全てここに書くわけにはいかないが、「Fight the Power」すべき相手が、アメリカから本土日本へと移り変わっていく混乱期の様子が、暴力組織の抗争を通じて描かれている。そこで必然的に露呈してくるのは、本土への拒絶の感覚である。ここまでは論理的にも理解できるし、一義的な目的は達成されていると言えよう。シナリオとしてもよくできていると言わざるを得ない。
だが、そうした「沖縄のこころ」のようなものがどこから来るのかまでは明確に描かれておらず、亜熱帯の米軍占領地で繰り広げられる死闘は、東映なりのブラックスプロイテーションとも解釈でき、やはり娯楽映画としての要請が大きいとは言わざるを得ないだろう。本土日本に対する「沖縄の抵抗」にダークヒーロー像を求めること自体、ある種の自作自演だし、やはり構造的な優位に甘えているのだ。
とはいえ、そうした批判的立場に立とうとするあまりに、周囲から孤立し、やがては組織の下っ端からも信望を失っていく国頭を最後は誰が仕留めるのか、そこに沖縄内部での差別が表現されていることを見逃してはならない。抑圧者に対する憎悪や抵抗は連鎖しており、本作はその重層を描いてもいたのだ。こうしたディテールの意外な細やかさが、また私を迷わせるのである。
すっかり煮え切らない文章になってしまった。結局のところ、どちらに行っても答えは明確でない。ならば今のところは、それをそのまま答えとするしかないだろう。
制作陣によっても十分に自覚されていないのかもしれないが、ここでなされている、娯楽映画による一方的な沖縄利用と、国頭が体現する沖縄のこころのようなものへの敬意、この功罪の両面を、私はそのまま認めたいと思う。少なくとも、永遠の留保をひとまずの肯定に変えてしまうほどの魅力が、ここでの千葉真一にはある。その熱量を否定できるほど、私はいかなる特権的な立場にもいないのだ。
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監督:中島貞夫
劇場公開日:1976年9月3日