Trash and No Star

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鈴木布美子『レオス・カラックス——映画の二十一世紀へ向けて』書評|おしゃべりで孤独な映画について

 それは愛についての映画であると、誰しもが思っている。愛と呼ぶほどの成熟がそこになかったとしても、それは暫定的に、やはり愛と呼ぶしかないのだと、誰しもが思っている。

 だが、愛と呼ぶよりも実は破滅に近いであろうその報われない行為を指して、しかもそれを演出した人間を前に、「これは愛ですよね?」と訊ける人間などいないだろう。しかも、相手は根っからの無口さで知られる人間なのだ。

 それでも、この本の著者は問うた。私たちの躊躇いと沈黙を代表して問うた。「あなたはこれからも愛の映画を撮り続けるのですか?」と。返ってきた答えはこうだ。「もちろんそうだ。なぜなら、あらゆる映画が愛について語っているのだから」。

 

 レオス・カラックスの映画を観て、語るということは、きっとこういうことだ。近づいたかと思えばまた引き離される、果てなき同語反復。その徒労をよそに、彼の映画はその孤独を謳歌しているかに見える。私たちはせいぜい、言葉もなくただそこに立ち尽くし、あるいはそれゆえの無意味な饒舌さと戯れたりするばかりだ。

 

 まずはいくつかの前提を共有しておく必要があるだろう。

 本書は筑摩書房の「リュミエール叢書」シリーズの13冊目として1992年に刊行されている。母体となる雑誌『リュミエール』は、蓮實重彦が編集長を務めた映画専門の季刊誌であり、1985年の創刊号から1988年の最終号まで14冊が刊行された。

 その『リュミエール』誌本体の休刊と入れ替わるように、1989年から刊行が始まったのがこの「リュミエール叢書」シリーズであり、最初の一冊である『小津安二郎物語』以降、ざっと調べる限りでは2012年頃まで40冊弱を断続的に刊行したようである。

 

 映画の21世紀を見守る良識ある映画狂の皆さんからすれば、それらはもはや唾棄すべき対象なのかもしれないが、蓮實の『映画狂人シネマ事典』でまとめて読むことができる『リュミエール』各号の巻頭言にせよ、編集後記にせよ、今なお映画との接し方を模索する上での示唆をじゅうぶんに含んでいると私は思う。

 叢書発行に当たって蓮實が書いているように、映画でしか変容させられない感性が人にはあり、その変化への可能性こそを運動と呼ぶとき、「どんな言葉がわたくしたちを不意打ちすることになるのか」。その邂逅の可能性に身を委ねること。その無謀に見合うだけの可能性を、人は今なお映画から受け取っているからだ。

 

 前置きが長くなった。

 

 本書は、映画批評家・鈴木布美子氏が、『ポンヌフの恋人』上映の時点で上梓した一冊であり、レオス・カラックスのインタビューやバイオグラフィー、あるいは資金繰りが何度も頓挫しかけた『ポンヌフの恋人』の制作ドキュメント、そして「作品論に向けた覚書」として、この時点での長編3作に対する批評などがまとめられている。

 2022年に類書(?)が出ているようだが、比較はしていない。が、本書の刊行後、1999年の『ポーラX』 や2012年の『ホーリー・モーターズ』はおろか、2021年には『アネット』まで世に送り出している今の時点で、あえてこの本が優先的に選ばれる理由は少ないに違いない。

 とはいえ、この時点でレオス・カラックスに関する単著を、つまりは「まだ3本しか長編を撮っていない映画作家について一冊の書物を書くことは、いくつかの難しい問題を含んでいる」ことの自覚をじゅうぶんに持った映画批評家に、それでもこの本を出させてしまったのが『ポンヌフの恋人』という作品であり、レオス・カラックスという映画監督だったのだ。

 それを事件と呼ぶなら、この本の出版自体がひとつの事件だったのかもしれない。そのように同時代を生きた書物の特権として、少なくとも当時の空気感を追体験することはできるだろう。まずはその点で、一読の価値は今なお残っていると思う。その上で、では本書の読みどころは具体的にどこなのか。

 

 当然、一つにはレオス・カラックスへのインタビューがそれに該当するだろう。

 今ではネットで検索するだけでかなりのボリュームが簡単に読めたりするわけだが、難産ゆえに多くの人を失望と混沌のなかに突き落とした『ポンヌフの恋人』によって、映画に愛され、またおそらくは呪われもしたであろうこの映画監督は、その混乱の果てで、どのような言葉をなお発しえたのか。そうした二度と再現できないタイミングでのインタビューはそれだけでじゅうぶんに貴重だろう。

 実際、その語りは見事なもので、レオス・カラックスは映画を撮るのと同じくらい、詩的な饒舌さに恵まれてもいるように思える。

 例えば、『ポンヌフの恋人』における浮浪者とは「恋愛状態のメタファー」であると明言した上で、「誰かを愛する人間は、裸でむきだしのままだ」とまでここで語っている。『汚れた血』のあと、進むべき道を見失いながらも、「化粧も、電話機も、寝室も使わずに愛について語ってみた」かったのだと。それは詩的だが、しゃべりすぎと言えばしゃべりすぎで、そこにセリーヌ『夜の果てへの旅』との精神的な共振までもが語られるのだから、これでは答えが全部出てしまっているようなものだ。

 

 とはいえ、個人的な好みで言えば、映画にしろ音楽にしろ文学にしろ、「作家自身の解題に基づく答え合わせとしての鑑賞」を好まない。その作品、その作家に出会わなければ変容することのなかった自分の中の感性や価値観、もっと言えば人生のようなものを、どれほど拙くても自ら言語化しない限り、映画を観たり文学を読んだりする価値はないように思うからだ。

 だから、本書に対して直感的な好感をまず持つとすれば、全部で3回に及ぶ監督インタビューを存分に収録しつつも、それとは独立した作品論をしっかりと書き上げているからだ。それは、インタビュー原稿がテンポのいい対話というよりも、ややぶつ切り感のある一問一答になってしまっていることの構造的な限界としてではなく、著者による明確な批評意識としてそうなっているのである。

 実際、著者の批評は、「たとえカラックス自身の発言がそうした内容を含んでいるにしても」などといった断りを入れながら、時には自ら取材し、書き留めたはずの作家自身の発言から背きながらも大胆に進んでいくのだ。

 

 では、本書が見い出そうとする、レオス・カラックスの映画とはいったい何なのか? その主題的一貫性は――もし、そんなものがあるとすればだが――どこにあるのか?

 それは言うまでもなく、本書が「リュミエール叢書」の一冊である限り、蓮實が一貫して距離を置いた「作家という特権的な立場の人間が特権的に披露しうる内面や思想の表現」としてではなく、映画の表層と運動のうちにこそ見い出しうるものなのである。

 

 例えば、『ボーイ・ミーツ・ガール』の物語上に見られる「父殺し」や「血縁者の不在」といったテーマは、『カイエ・デュ・シネマ』のライターとしてデビュー前からゴダールの現場に入り浸っていたという映画青年の、映画史と自己とをめぐるやたらと自意識過剰なメタファーとして機能している、という分析もそれはそれで面白いと思うし、いささかペシミスティックではあるが、二人の女性をめぐる「恋愛の不可能性」といったテーマも、血縁の外で親密な関係を築くことのできない新人映画作家アイデンティティ確立をめぐる(これまた自意識過剰な)困難を表現していたというのも、説得的ではある。

 だが、ここまでは図式的と言えば図式的だ。そうではなく、『ボーイ・ミーツ・ガール』が処女作ゆえの自己言及に満ちていたとすれば、この監督の本領が発揮されるのは、活劇やクライム・サスペンス的な娯楽要素も組み込んだ次作『汚れた血』であるわけだが、そこで見出される「無防備に差し出される背中」という表層的主題から、「交わらない視線」、つまりは「ディスコミュニケーション」という大きなテーマに流れ出ることが差し当たり重要である。

 

 もちろん、「視線」をめぐるカメラの構図やモンタージュといったテーマは、それはそれでじゅうぶんに古典的な分析理論でもあるわけだが、だからこそ映画史をめぐるマニアックな解析ではなく、カラックスの映画における「言葉の辱め」というより大きなテーマと出会うなかでこそ、有効な説話技法となるのだ。

 著者は、「カラックスの映画において、言葉は二重に辱められている」と言う。一見、彼ら・彼女らは詩的な言葉を高速で交換しているかに見える。だがそれは常に、話者の疎外化か、あるいは不毛な饒舌としてしか機能しないのだ、と。ならば『ボーイ・ミーツ・ガール』における虚実が入り乱れた奇妙なモンタージュは、「映画内現実」というフィクションの次元を操作するものではなく、この疎外化と饒舌を演出するためにこそあったのだろう。

 そうした「ディスコミュニケーション」の主題は、もちろん『ポンヌフの恋人』にも(むしろ、より困難な形で)引き継がれ、「アレックス三部作」の避けがたい通奏低音となる。いささか答え合わせ的ではあるものの、それは結局のところ、カラックス映画における「言葉に対する身振りの優位」という大きな主題体系を構成するのだと著者は言う。

 言うまでもなく、人はそこで、本書刊行の時点では存在しない『ホーリー・モーターズ』における、かつてアレックスと呼ばれた男と映画とのか細い接点が、「行為の美しさ」というあの簡潔な言葉で表現されていたことを思い出すことになる。もちろん、同作はそうした批評意識さえも飲み込んでしまう高度なメタ構造にあったわけだが、本書をいま読むことの価値は、こうした「その後」との整合性にあるとも言えるだろう。

 

 以上の要約で何かを検証できたとは思えないが、少なくとも著者がカラックスの作品から見い出している主題体系は、およそ「裸でむきだしの愛」やら「愛と疾走」云々とは関係のない、それでいてじゅうぶんに説得的なものだということは紹介できたのではないかと思う。

 あるいは、『映画の神話学』やら『映像の詩学』を踏まえて言うのなら、こう言った方がより正確かもしれない。映画というフィクションの時間的な持続を許すための口実に過ぎない「物語」とやらは、あくまで運動というレベルでの「主題体系」との有効な連動性によってこそ測られなければならず、その時に初めて、映画としての「説話技法」が辛うじて見えてくることになるのだ、と。そうした地点を少なくとも本書は目指している。

 さらに言えば、『ポンヌフの恋人』においては、「言葉に対する身振りの優位」が進めば進むほど、ヒロインの視力は失われていく。こうした致命的な逆説。愛の主題と視線の主題がいよいよ分かち難い直列接続となり、さらには「炎と水」という主題を通じて、著者は映画史の探求にも向かう。愛との距離。映画との距離。視線の消失とディスコミュニケーション。読み応えはじゅうぶんだ。

 

 批評というものが疎まれて久しい(らしい)が、仮に、作家が公の場で発言した作品の意図みたいなものがあったとして、それ以外の理解はすべて「深読み」ということになるのだろうか?

 もちろんそんなことはないわけで、映画を観る楽しみが、「ただ一つの正解」を軸にした同語反復的な答え合わせに劣るわけがないのである。あまり過剰に美化しようとも思わないが、「言葉の不意打ち」に身を委ねることの実践が、少なくともここにはある。

 

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著者:鈴木 布美子
出版社:筑摩書房リュミエール叢書〕
初版刊行日:1992年3月20日