Trash and No Star

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是枝裕和監督『ラストシーン』感想|ビフォア・サンセット~恋人までの距離~

(画像は公式動画からクリップした)

 

 ピーピーと安っぽい音を鳴らしながら、ロボットとも言えないような機械が配膳を行う夜のファミリー・レストランで、二人の男が何やら話し込んでいる。顔は随分とニヤニヤしているが、もちろん、それほど楽しい内容ではない。

 テレビドラマのプロデューサーと脚本家であるらしい二人は、現在進行中の、別に撮っても撮らなくても変わらないような作品の視聴率を1%でも上げるために、その際立って安っぽいラストシーンをどうするかの作戦を練っていたところだ。

 

 大方の予想通り、そこにあるのは「大人の妥協」と呼ぶにすら値しないようなサラリーパーソン的な諦めであり、二人は互いにその凡庸さを茶化しあうばかりで、何の結論も得ないまま作戦会議はお開きとなる。

 席にただひとり残された脚本家の男(仲野太賀)は、自分の手掛けるドラマが、「作品」と呼ぶには値しない「商品」なのだと言ってはばからない、いかにも中年に差し掛かりつつあるキャリアを半ば自虐的に受け入れているが、だからと言って内なる理想も完全には捨てられずにいる。

 

 その中年めいた停滞感を打ち破るように、一人の若い女(福地桃⼦)が唐突に登場する。何を隠そう、彼女はその脚本家の孫で、過去を書き換えるために未来からやってきたばかりだ。曰く、このドラマのラストシーンに、地上波におけるテレビドラマそのものの寿命と、彼女の祖母、つまり脚本家の未来の伴侶となる女の女優生命がかかっているというのである。

 ここの出会いの場面がいささかも詩的ではなく、かと言ってコミカルにも振り切れていないことがやや惜しいが、茶番めいたやり取りをぎこちなくこなしながら、やや風変わりなボーイ・ミーツ・ガールが一応は成立する。

 彼女の言うタイムマシーンがいったいいかなるものなのか、具体的な描写は一切ないし、ファミレスで紙のメニュー表を要求し、パンケーキをホットケーキと呼ぶレトロスペクティヴなその習慣は、むしろ過去からやってきたようにしか思えないわけだが、おそらくは意図的であろうそうした荒唐無稽な設定をいちいち点検する暇も与えず、女による強気の説得が成立し、二人が束の間の協力体制を組むことで物語は動き出す。

 

 いささか強引な展開に呆気に取られながらも、まあ、プロモーション用の娯楽作品だからこんなものだろうと高を括っていると、2011年の佳作『奇跡』の劇伴を完璧に務めたことでも記憶されるくるりの代表曲が完璧なタイミングで流れ始める。

 その曲、「ばらの花」のあの翳ったイントロを被せた自動車の走行場面を後ろから追いかけるショットに画面が切り替わると、こうした「省略」こそが映画のリズムであり、呼吸であり、紛れもなくこれが是枝映画なのだということを、誰しもが信じ始めることになる(おまけに、行き先は由比ヶ浜である)。

 そう、そこに一人の男と、一人の女がいて、さらに車があるのであればそれはもう映画であり、物語は後からついてくるのだと。是枝監督がこの作品に込めたメッセージがもしあるのだとしたら、それは後悔がどうとか、人生がどうとかいうものではなく、間違いなくここだろう。

 実際、夜のファミレスで束の間の協力関係を築いた二人にとって、本当は旅に出る理由なんて何一つ必要ないのだ。未来からやってきた人間が過去を書き換えるという、サイエンスフィクションと呼ぶにはあまりにも紋切り型の設定を持つこの『ラストシーン』は、そうやって曖昧に動き出す。

 

 ところで、本作はiPhone 16 Proで撮影されたという。

 だが、ショーン・ベイカー監督が『タンジェリン』を撮った10年前ならいざ知らず、2025年の今、iPhoneで撮られた映画など別に珍しいものではない。まして、それをパルム・ドール受賞作家がアップルの公式プロモーション作品として撮ってしまっては、かえってインディペンデント・シーンへの抑圧になりはしまいかと心配になってしまうくらいだ。

 実際、ここでのiPhoneはもはや「制約」の象徴ではなく、「可能性」として提示されているのであり、エンドロールにあわせて見慣れたリンゴのマークが画面に浮かび上がるといかにも居心地が悪い。

 おまけに、由比ヶ浜を目指す車が高速道路のトンネルに差し掛かる瞬間に、カメラを車内へと緻密に切り替える編集の生真面目さや、助手席で眠る女の顔をスローモーションでアップにしながら、それを見つめる男の横顔に切り替える編集のリズムには、隠しようもない凡庸さが取り残されている。

 それこそ、脚本家の男が自虐的に言う「みんながそれなりに楽しめればそれでいい商品」のようでいささか物足りないのだが、過去を生きる祖母への「介入」を終えたあとの浜辺で、曖昧な雲行きの空の下、曖昧な距離を縮めつつある二人の背中を曖昧な距離のカメラが黙って見つめる時、禁じられたはずの甘美な感情がやがて訪れることを予感しない者はどこにもいまい。

 そう、常に「家族」の形を問うてきた是枝監督の短編映画らしく、この二人は時空を超えた血縁関係にあるわけだが、未来からやってきた勝気な孫は、むしろ曖昧な恋人として脚本家の現在を勝手気ままに書き換えていくのだ。

 

 まだ公開されたばかりの作品だ。詳しいことの経緯はいちいち書かないが、「人生は、いつもちょっとだけ間に合わない」作品を撮ってきた是枝監督にしては珍しく、この『ラストシーン』はどちらかと言えば「間に合った」部類の作品である。

 それは「間に合わせた」といった方が適切かもしれないが、いずれにせよ、脚本におけるそうしたある種の凡庸さは、この茶番を装ったボーイ・ミーツ・ガールの小話を30分程度でまとめざるを得なかった制約下での意図的なものであるのだろうし、視聴率一桁の世界を争う劇中劇への自己言及であることは言うまでもない。

 スコット・フィッツジェラルドの短編に向けられた批判の言葉から表現を借りれば、これ全体が、「歯医者の待合室での退屈な30分を共に過ごすにはうってつけな作品」としてまとめられているのだ。

 

 だから必然と言えば必然なのだが、恐ろしいまでに紋切り型の設定で始まったからには避けようもないほど紋切り型の、あらかじめ決められた「別れ」へと向かって、二人は進んでいくことになる。

 果たして、二人の未来はどのように書き換えられていくのだろうか。そこで交わされるかもしれなかった甘美な言葉を思いながら、二人はどのような未来へと進んでいくのだろうか。どうやら、タイムリミットは日没らしい。観覧車へと急ぎ、遊園地を駆け抜けていく二人を、おそらくは手持ちのまま横移動で捉えたカメラを尻目に、曖昧な恋人たちの時間はあっという間に過ぎ去っていく。

 

 祖母が演ずる劇中劇をめぐっては、脚本上の「台詞」への執着が最初から最後まで描かれるわけだが、それはこれまでの是枝映画へのささやかな自己批判でもあるのだろう。事実、是枝映画での登場人物たちは、いつだって「出来すぎた台詞」をしゃべりすぎた。それはかえって、リアルなドラマからリアリティを奪うことにもなっていた。

 だが、距離を縮めつつある男女が過ごす場所としては恐ろしくノスタルジックな、未来ではすでに失われているらしい観覧車という舞台で交わされる会話、特に女が最後に発する短い台詞は、驚くほど艶やかな、それでいて曖昧な抑揚で、逆光をもたらす夕陽とともに観る者の心を打つだろう。あり得たかもしれない、他のどのような言葉よりも深い余韻が、そこにはある。

 未来から来た人間は知らないかもしれないが、単なる脚本の映像化に留まらないこうした映像表現を、少なくともこの時代では「映画」と呼んでいる。本作は、そのささやかな備忘録だ。

 

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監督・脚本・編集:是枝裕和
ウェブ上公開日:2025年5月9日

 

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