
日本に生まれ、育ち、母国語としてたまたま習得「してしまった」この日本語というものを、いったんアンストせよと、著者は言う。そんなもの忘れてしまえと。
その上でもう一度、インストールし直すのだと。本書の副題は、だから、本当は「ことばのアンインストール」なのだおそらく。そう、いかに忘れるか、ということ。
とはいえもちろん、完全にアンストしてしまっては本書を読み進めること自体ができなくなってしまうわけだから、それはある種の勢い、ないしレトリックでそうなっているのだが、しかし「では、私たちは言葉を(たまたま習得してしまったこの暫定的な日本語というものを)どのように使用しているのか」ということを、何の自覚もないまま覚えてしまったからこそ普通は対象化できない、語彙、構文、論理、修辞、演出効果に至るレベルで徹底的に分解して考え、いまだ頭の中にしかない「ことば未満」たる思考の断片ないし土石流が「ことばの芽」となり、やがて「文章」へと生成していく過程をすべて言語化せんとする緻密さというか過剰さというか、これを佐々木敦節と呼ぶのかは、単著はおろか著者によるある程度まとまった量の文章をFennesz『Endless Summer』のライナーノーツ以外で読んだことがない私にはわからないが、例えば「多様性」というものの話をするときに『環境白書』から生物多様性の定義をわざわざ引くという、そのある種異様とも言える周りくどさ、迂回性、また自分の文章を常にメタレベルから制御しないではいられない括弧書きによる「セルフ・ツッコミ」の執拗さは、個人的には通しで2回読んだ時にようやくすっと落ちてくるものがあったのだが、そういう意味では、タイトルや人脈から連想した『ライティングの哲学』とはけっこう異なるタイプの本で、はっきり言って、書けるようになるための即効性はほぼないと言ってよい。
それどころか、完全には実行しきれないアンストと、ものすごい量の再インストールが同時に進むので、普通のメモリしか持たない読者からすればきっと、本書を読むことは目隠しをされ手を縛られつつ足の拘束を解いてもらうような体験であり、帯の宣伝文句とは実は真逆で、読んだあとに「いったん書けなくなる」本なのではないかと思った。少なくとも、自分は読後、すぐに文章を書こうという気にはなれなかった。「自分が書いてきたものは、いったい何だったのだろう?」という、書くことのゲシュタルト崩壊みたいな状態に陥ったからである。もちろん、それは本書が「使えない」とかそういう話ではなく、というか使える/使えないという水準で言っても「せっかく芽が出たのだからと大事にし過ぎてしまうと、むしろ綺麗な花が咲かないことだってある」とか、「メモの大半は、ただのメモで終わることをよしとするくらいでいい」といった今日から使えるHow to的な内容もなくはないのであり、だからこそそうした実用面での不満はほぼなく、それでもあえて『ライティングの哲学』との比較を続けるのであれば、本書には「技術や方法だけに還元されない書けなさ」という一文に象徴される凄みがあるのであり、こういう言い方が適切かはわからないが、ある種の書けなさが一般化し、そのケアたる執筆論が流行している現下の状況において、あえて「小手先のテクニックでどうにかなると思うなよ」という逆張りをしているのではないか。
だからこそ、なのか、にもかかわらず、なのか、本書は「書くことの哲学」と同じくらいに「読むことの哲学」でもあり、端的に言えば、文章を「表層的に読むこと」の原理とコツのようなものが(例によって)余すことなく言語化されているのだが、それはなにも、詩的な文章と事務的な文章があり、ならば前者の風情を楽しみましょう、というような二元論ではもちろんなくて、蓮實重彦の映画論風に言うなら、小説を進めるのに便宜的に必要ということになっている「物語」なるものの説明としての文章ではなく、もちろん作家という特権的な立場から特権的に披露しうる思想や内面の「表現」としての文章でもなく、まさに今、書き、書かれつつある文章それ自体の生の持続、というか、語彙のチョイス、構文の成立・破壊、レトリックの感性、ロジックの持続や転換、エフェクトのかかり具合などなど、それは優れた映画を観るように、あるいは優れたアンビエント・ミュージックを聴くように文章を読むことなのであり、もしかしたら少なからぬ人がすでに実践しているかもしれないが対象化まではしていないことを、ここまで執拗に言語化した例は他にないのではないだろうか。その意味で本書は、『ライティングの哲学』よりも『センスの哲学』の横に並べるべき一冊かもしれず、文章が書ける/書けないとか、締め切りに間に合う/間に合わないとかよりももっと大事なことがある、ときっと言っているのであって、だから書けた書けたとただ無邪気に喜ぶのではなく、単に日本語と言っても標準語だとか方言だとかそういうこと以上にバラバラな、自分の文章に身体的な癖として刻まれた多様性や個性を自覚しつつ、だがそこで開き直るというより、自分にそのようなものが蓄積、生成されていた事実に気付き、喜び、あるいはおののくことが必要なのだと著者は言っているのである。
それは、千葉雅也の言う「人間は必ず個性的なのであって、何を真似しても当人のスタイルに変形される」というモノマネ執筆論の肯定や(『ライティングの哲学』)、あるいは「人生の途中の段階で、完全ではない技術と、偶然性が合わさって生じるものを、自分にできるものとして信じる」といった人生の肯定とも似ていて(『センスの哲学』)、同じ講談社現代新書だからこう言うわけではないのだが、『現代思想入門』などの語り口も十分に意識しつつも、独特の振り子構造というか、ベタとツッコミ、脱線と揺り戻しの反復運動というか、一応の結論が出たとしてもすぐにその例外的要素への精緻な言及が始まるという、一向に進まないし終わらない、終わらないし進まないこのように回りくどい構成にしたのは、簡単に読まれてたまるかという天邪鬼というより、この迂回性や脱線性、網羅性こそが佐々木敦なのだと肯定しているからなのだろう。つまり、壮大な寄り道と意図的な脱線を繰り返しながら、それでも一冊の本として執筆を終えることができた本書の存在それ自体が、一つの文章が、ある種の運動の中で自らの生の持続を生き、終わるという本書内容の実践となっているのであり、そんなわかりきったことを指摘することにどのような価値があるかはわからないが、この文章の行きがかり上の義務として念押し的に確認したところで、ひとまず筆を置くこととしよう(実際にしていたのはタイピングだが)。
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