
ぼんやりと一年も寝かせてしまったことが悔やまれるほど、アツい本だった。
それは本書が、2022年、つまり沖縄の「復帰50年」のタイミングでエフエム沖縄が制作した特別番組を、単に読者向けの語りとして再構成した一冊であるだけではなく、沖縄のポップ・ミュージック・シーンの50年を膨大な固有名詞とともに振り返る「駆け足の通史モノ」であると同時に、何より、ローカルなインディーズ・シーンから新たな才能を「発掘」してきたエフエム沖縄の魂の50年史、あるいは愛と涙の青春狂走曲でもあるからだ。
有名ミュージシャンのデビュー前後の裏話から関係者による当時の回想まで、残すべき時に残さないと残らないものが、おそらくここでは語られている。それが文章として残された貴重さに感謝しつつも、また一方では、本書で紹介されているいくつかの音源については、CDなどの正式な録音物で聴くことが難しい、という別の現実にもぶち当たる。それをどう考えたらいいか。
もちろん、それがローカルということであり、インディーズである、ということなのかもしれないが、自分も含めた本土側、内地側の人間が、広義の「沖縄ポップス」の中からどういう音を受け入れ、あるいは消費し、逆にどういう音を聴くことがなかったのかが、そこに表れてはいないだろうか。そんなことを考えるヒントも、きっとたくさん含まれている一冊である。
では、中身を見ていこう。
復帰50年記念だから、話は1972年から。それがたまたま喜納昌吉&チャンプルーズの"ハイサイおじさん"から始まるというのは偶然にしては出来すぎな気もするが、本人の回想インタビューを読むと、沖縄民謡をロックに混ぜてエレキ化したことへの批判も当時はかなりあったことがわかって面白い(ちょっと1965年のボブ・ディランみたいな話だ)。
「民謡の世界からは民謡ではないと言われるし、ロックの世界からはロックではないと言われる」という当時のジレンマがすべてを物語っている。それはロックンロール以降の、つまり1960年代以降の優れたポップ・ミュージックが浴びてきた批判の、もっともありふれた類型でもあるからだ。境界を踏み越す者は人を怒らせ、怖がらせ、苛立たせる。いつの時代もそれは同じだ。
そう、越境的であること。チャンプルー的であること。ミクスチャー・ロックなんて言葉ができるずっと昔から、チャンプルー・ロックの実践が沖縄にはあったのである。もっとも、このとき怒られたのはたまたま喜納昌吉であったが、遅かれ早かれ、誰かがやることになったのではないか、とも思う。偶然で必然の1972年だ。
一方、同じ時代の「コザ・ロック」、すなわち紫とコンディショングリーンは、ルーツの違いこそあれ、「洋楽」に同一化することに特化した音楽だったと言えるだろう。それも、米軍関係者を相手にした現場で鍛えられたという有名なエピソードが物語るように、その傾向自体が沖縄戦後史の表れでもある。
そう、占領者の好む抵抗音楽を、占領者向けの娯楽として現地の人間が奏でること。その複雑さ。もしくは豊かさ。あるいは、ここでは本来、ジャズについても論じられるべきなのかもしれないが、差し当たりこの3バンドの音楽的な特徴と、互いの距離を考えるだけでもじゅうぶんに面白い。
続く1980年代は、本書の内容を踏まえるなら、70年代ほど大きな唸りはなかった時代のようである。
参考までに、同時代のアメリカ、ということで言えば、まずハードロックの圧倒的な普及があり、ディランの系譜学という意味ではブルース・スプリングスティーンのヒット、それも合衆国大統領まで巻き込んだ国民的なヒットがあり、ブラック・ミュージックの主流化、そしてクラブ・ミュージックの文脈ではディスコの大衆化が、もっと大きく言えば、ストリート・ミュージックとして登場したヒップホップの商業化が行われていた時期でもある。
沖縄とアメリカとの距離、という意味では、こうしたサブ・ジャンルの多様さとリアルタイムでの連動があっても不思議ではないが、そういったものはなかったか、残らなかったようである。少なくとも本書には記録されていない。「復帰後」という状況の変化を踏まえて推測するなら、アメリカに認めてもらうよりも、本土日本に認めてもらう方が先決、というか、そこを通れば商業的にはじゅうぶんやっていける、という感覚があったのかもしれない。
そうした中、本書の文脈でもっとも強調して紹介されているのは、ハートビーツというロック・バンドだ。個人的には今回初めて知ったが、ジャンルとしてはロックンロール。リトル・リチャード直系であり、同時代性というものを全く度外視した清々しい時代錯誤である。さらに言えば、サウンドの面でも言葉の面でも、沖縄的雰囲気はここには全く混入していない。
「僕らもツッパってましたから、おんなじ土俵で戦いたいなという気持ちがありましたね。沖縄だからということで三線を使ったり、沖縄の言葉を入れたりしてやるのはやらないでおこうと」。こう回想するバンドのギタリスト、JOHNNY(a.k.a ジョニー宜野湾)氏の発言は、反・喜納昌吉&チャンプルーズ的だとも言えるか。もっと言えば、「日本」になった復帰後の沖縄出身ミュージシャンの引き裂かれた思いを代弁するものかもしれない。
こうした、ハートビーツの広い意味での反・沖縄的態度が支持されたのが80年代なら、本土の人間が「沖縄ポップス」と聞いて最初に思い描くであろうサウンドのひな形が完成したのもまた80年代である。そう、りんけんバンドの登場だ。
あえて沖縄の囃子を入れ、ウチナーグチを積極的に使うことで、標準語で歌って欲しがる東京のレコード会社に対し、逆に「沖縄に対してもっと考えたらどうか」と異議申し立てをしていたことが、照屋林賢のインタビューで回想されている。エキゾチシズムへのアピールではない、沖縄的アイデンティティーの確立。そこには、喜納昌吉&チャンプルーズよりもさらに「一周回った」ような純度と強度がある。
興味深いのは、ここからさらに「島唄」に的を絞ったようなBEGINにしても、「ウチナーンチュもちゃんと日本人なんだよということを認めてもらおうぜ」というマインドが活動の根っこにあったということだ。音楽性や手段は対照的でも、ハートビーツからりんけんバンド、そしてBEGINまで、実は同じような心構えだったと言えるのではないだろうか。勝手に意訳するなら、それは「沖縄舐めんな」ということである。
もちろん、ここで注意すべきは、(本書でも太ゴシックで指摘されているように)90年代におけるワールド・ミュージック・ブームの影響である。
日本国内の場合、『ミュージック・マガジン』が震源地なのかはわからないが、穿った見方をすれば、この時期の沖縄ポップスへの関心も、アメリカ、イギリスといったお決まりの「洋楽」以外の辺境音楽への平等主義的な眼差しが、「いち辺境」としての沖縄に注がれた結果に過ぎない、という批評はじゅうぶんに可能だろうと思う。
このあたりはもっと真剣に検証されるべきだろうが、その一方では、90年代以降のJ-POPシーンにおける沖縄勢の快進撃については全く疑問のないところだろう。まずはなんと言っても、安室奈美恵を頂点とした沖縄アクターズスクール勢によるオキナワン・インベージョンがあり、それはJ-POPの勢力図を完全に書き換えてしまった。
もっとも、本書はこうしたデカい動き、すなわち「J-POP的正史」にはさほど文字数を割いていない。
先に述べたように、それは本書が沖縄のインディーズ・シーン「からの」眼差しで書かれてもいるからで、こうした表層よりはむしろ、当時のハードコア・シーンをリードし、後にMONGOL800が登場する土壌を用意した地獄車であったり、エフエム沖縄経由でブレイクしたKiroroやCoccoの「発見」にまつわるエピソードに多くのページが割かれている(映画みたいな話が多く語られているので、ぜひ本文を当たっていただきたい)。
この一連の過程で興味深かったのは、90年代、沖縄に移住していたどんと(元ローザ・ルクセンブルグ、元Bo Gumbos)が、自主制作盤をタワレコに持ち込み売ってもらっていた、という逸話である。このルートの開拓が、地獄車のブレイクを可能にした。また、沖縄民謡で構築された物流システムが、若者たちのインディーズ・シーンを支えたという分析もなされている。CDに音楽を入れて大量に売る、という商業文化の最盛期を、ローカルな物流システムで支え、謳歌したのがこの時代の沖縄だったのだろう。
やがて、2000年の「沖縄ブーム」がやってくる。音楽もそれに連動するように沖縄勢の快進撃がさらに続き、CHICO CARLITOの"27"じゃないが、「HY、モンパチ、ORANGE RANGE」の時代がやってくる。もちろん、これもわざわざここで経過を要約するには及ばないだろう。「あとはご存じのとおり」だ。
しかし改めて考えると、多くの沖縄出身ミュージシャンを、なぜか私たちは「沖縄出身」と記憶している。あえて「日本のいち都道府県」という言い方をするなら、ミュージシャンがその出身地とこれほど明確に紐づけられた状態で記憶されている都道府県がほかにあるだろうか?
もちろん、それが沖縄を理解することにどれほど貢献したのかはわからない。本土ではほとんど認知されていないバンドもいる。自分も含めた本土側、内地側の人間が、広義の「沖縄ポップス」の中からどういう音を受け入れ、あるいは消費し、逆にどういう音を聴くことがなかったのかが、やはりここに表れているような気がするのである。
最後に、余計なことを付け加えておく。
実は本書は、沖縄ラップへの言及を期待して買ったのだが、正直に言えば、ST-LOWもRITTOもCHOUJIも登場しないまま、わずか4ページで終わってしまう構成には不満が残った。黎明期から一気にAwichに飛ぶのは、登場人物的にはつながっているとはいえ、昨今のシーンの盛り上がりを踏まえればやや無理があるだろう。そこがちょっと物足りなかった。
なお、RITTOについては以前、アルバム・レビューでも取り上げたことがあるので、もし興味がある人にはそちらを読んでもらいたいが、RITTO的逡巡がようやく過去のものになりつつあるのか、ここ数年の沖縄ラップ勢は、明らかに互いの連帯を強め、自身らのルーツに対する眼差しを強めている。本書が描いたような、ロックを軸にした50年の歴史を学びながら、こうした同時代の動きにも、自分なりに向き合えたらと思う。
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