Trash and No Star

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イターシャ・L・ウォマック『アフロフューチャリズム』書評|ブラック・トゥ・ザ・フューチャー

 便宜的に「地球」と名付けられたこの惑星から、まだ見ぬ宇宙の彼方まで。あるいは、遥か古代のエジプト文明から、遥か未来のポスト・ヒューマン時代まで。そうやって時間と空間の限りを自在に、「蛇のように」滑走する想像力に時差と酔いを感じ、思わずよろめきながらも最後のページをどうにかめくり終える。

 なるほど、自分はアフロフューチャリズムのことをよくわかっていなかったのだな、とも思わされたし、曖昧だった部分が解消され、理解がより深まったな、とも思えた。何より、「アフロフューチャリズム」という題材だけで一冊の本が書かれ、翻訳され、それなりの好評を得ているという状況に興奮を覚えずにはいられなかった。

 

 もっとも、本格的な論考というよりは、カルチャー誌への寄稿文といった感じの(良い意味での)軽さが魅力の文章であり、必ずしもアフロフューチャリズムの何たるかが体系的に描かれるわけではないのだが、メモし切れないくらいの膨大な固有名詞とともに、多くのヒントが散りばめられているのは間違いない。

 読者の関心によっては虎の巻にはならないかもしれないが、少なくとも音楽や文学、映画などを通じてアフロフューチャリズムの冒険をこれから追体験しようという人がいるのなら、現時点でまず間違いなく避けては通れない一冊だろう。原書は2013年刊行。図らずもBLM運動の高まりと連動していたのは、ただの偶然だろうか。

 

 少し飛ばし過ぎたかもしれない。先日公開したブラック・ミュージックの特集記事「変わりゆく同じもの――『ブラック・カルチャー』を読んだら聴いて欲しいブラック・ミュージックの歴史的名盤 厳選50枚!」でも、そこを訪れる人が『ブラック・カルチャー』を読んでいるという前提で特に注釈もなく使用してしまったのだが、この「アフロフューチャリズム」なる言葉の定義みたいなところから、今回は改めて確認しておきたい。

 アフロフューチャリズムとは、その名のとおり、「アフロ・ディアスポラのための未来主義思想」であり、あるいはそれを獲得するための想像力である。もっと噛み砕いて言えば、こういうことだ。それはある種の美術や音楽、文学や映画などのブラック・カルチャーを貫く想像力のことで、「アメリカ白人が勝手に抱く劣った人種イメージ」を拒否し、オルタナティブな未来の中に自分たちの本来の姿を描く自己表現の方法である。

 「想像力は、抵抗のツールである」と、著者は本書で断言している。「希望、大変革への期待」もそうだろう。だからこそ、そこではしばしば超自然的な能力や、未知の先端的テクノロジーも肯定的に含まれる。それによって、「劣等」と一方的に見なされる身体的な条件などが自ずと無効化されたりするためだ。このイマジネーションの技法が、「ブラック・サイエンス・フィクション」とも呼ばれる所以である。

 

 では、この想像力はいったい何に対置されたものなのか? 言うまでもなく、「ブラック」という言葉に恣意的に課せられ、一方的に上塗りされてきたステレオタイプの数々である。

 例えば、黒人はこうだ、ブラック・ミュージックはこうだ、映画における黒人俳優の役割はこうだという風に、ほぼ無数に列挙しうる「ブラック」にまつわる先入観をアフロフューチャリズムは撹乱する。「ブラック」の烙印から脱却し、「ブラック」の意味を取り戻そうとする。主流派社会の中で全く予期されていない未来を大胆に描くことで、この世界が安住しようとしている「現在」を激しく相対化する。

 その時に拠り所になるのが、例えば古代エジプト文明である。つまりアフロフューチャリズムは、失われた古代エジプト文明をアフロ・ディアスポラの記憶遺産とするのみならず、むしろ失われた理想の未来として描き直し、離散した同胞たちの共同性を取り戻していくための方法なのだ。自分たちはどこからやってきたのか。そして、どこに向かっているのか。どのような「未来」に還ろうとしているのか。

 本書の解説者でもある大和田俊之氏は、自著『アメリカ音楽史』で次のように述べている。「アフロ・フューチャリスティックな想像力の大きな特徴は、それが『未来』と『過去』を同居させる点にある」。本当にそのとおりだ。

 

 さらに、アフロフューチャリズムの実践においては、故郷から引き剥がされ、売買され、アメリカという国を「人間ならざるもの」として生きることを強いられた奴隷制時代の記憶やそれに連なる血統を、疎外や抑圧の象徴としてただ破棄するのではなく、むしろ「エイリアン」のイメージとして巧みに取り込み、自ら二次利用し、意味を書き換えていく試みもしばしばなされている(本書でも、SFに見られる「宇宙人による誘拐」のモチーフと、「大西洋奴隷貿易」の共通点が度々指摘されている)。

 そしてこれは、音楽で言えば特に女性アーティストの活躍が顕著という点に象徴されることでもあるのだが、こうしたエイリアンのイメージに、フェミニズムの批評理論をさらに混交させることで、女性たちは「男性からの承認や社会規範、肌の色に基づく分類、女性に向けられがちな期待などのプレッシャーを感じることなく、理論、キャラクター、芸術、美を作り出す」ことができたという。アフロフューチャリズムとフェミニズムの相乗効果だろう。

 さらに加えて言うなら、1980s以降のトランスボディ/ポスト・ヒューマン的なアプローチや、SF的なテクノロジー志向とも彼女らは果敢に合流し、取り入れ、自身のエイリアン化を「サイボーグ化」というレベルにまで拡張していったことは、もっと積極的に確認されてもよいのではないかと思う(先のブラック・ミュージック特集で言えば、Grace Jones、Missy ElliottErykah Badu、Janelle Monáe、FKA twigs、Dawn Richard、Sudan Archivesなどを見よ。もちろん、ここにLittle SimzNicole Mitchellを加えてもよい)。

 とは言え、この話をこれ以上詳細に展開する余裕も今はないのだが、しかしこうしたアフロフューチャリズムの理論的拡張を正確に言語化するには、例えばダナ・ハラウェイのサイボーグ宣言による「サイボーグ・フェミニズム」以降の批評理論などとの接続を明らかに必要としているのではないか。ここは個人的な宿題としたい。

 

 ひとまずのところで、本書を参考にした上で総じて言えば、ここで重要なのは、「混交」を一つの武器とするアフロフューチャリズムという概念それ自体が、またほかの思想や想像力、あるいは批評理論などとも混交しながら、自らの定義をも書き換えている、ということである。

 もちろん、より大きな抑圧がより大きな想像力を生む、という構図は(これまで何度も何度も確認してきたように)抑圧の構図をむしろ温存させようとする方向に働くのであまりロマンティックにならないよう十分に注意しなければならないが、しかし同時に、人種(という概念)、階級、ジェンダーセクシュアリティなどをはじめ、幾層にも積み上げられた抑圧のインターセクショナリティを突破するための想像力が、ここにはあるように思えてならないのだ。

 自らのアイデンティティーを、他人に定義させないこと。自分たちのイメージを、自分たちでコントロールすること。その戦いの過程で、また自己像が刷新されてゆくのだ。つまり、自らが常に変身を遂げながらも、そこで生じた新たな自己像からも絶え間なくフィードバックを受け、それが直ちに反映されていくような、循環しながらも前進していく、たとえば合わせ鏡の間を螺旋状に進行していく波のような力が、アフロフューチャリズムの駆動原理になっているのではないか。

 著者も本書で言っている。「あなたが変えるものは、あなたを変える」。まさにそのとおりである。アフロフューチャリズムを少しでも一般化し、私たちに取り入れようとするとき、最初のヒントは多分そこにある。

 

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著者:イターシャ・L・ウォマック
訳者:押野 素子
解説:大和田 俊之
出版社:フィルムアート社
初版刊行日:2022年8月30日