(画像は公式サイトから)
もちろん、それほど悪い映画ではない。
あの『怒りのデス・ロード』において神話的クーデターを成し遂げた女性兵士・フュリオサが、そもそもなぜ、水と緑にあふれた生まれ故郷を離れ、イモータン・ジョーが支配する独裁国家の軍幹部となったのかが幼少期から順に時系列で描かれるわけだから、少なくとも前作のファンにとっては、あの大胆な省略が施された舞台設定を理解する上では必見だろうし、前作と同じくらい激しいアクションの中で多くの爆薬が惜しげもなく使われており、一見したところでは、「相変わらずやってるなあ」というか、やはり何らかの意味で「過剰な」映画であるとは言えるだろう。
しかも、「荒野の中での往復運動」という『マッドマックス』的主題は本作でも繰り返されており、大砂塵の中でとめどなく演じられる逃走劇と追跡劇は血と油にまみれ、核戦争後の荒廃した世界をさらに醜いものへと変えていくだろう。そこでは、愛と復讐が激しくせめぎあっており、それが逃走と闘争を演じながら絶えず繰り返されていくわけだが、『マッドマックス』的倫理においては、常に愛と逃走の側が敗北するほかなく、愛する者を失った人々は、復讐のための闘争に命を捧げ、山となった屍の上に自らの死さえもただ空しく重ねていくしかない。
『マッドマックス』的世界が陥っている(らしい)狂気の実相を描くという意味であれば、なるほど、人々は世界が滅んだあとにもこのように憎しみ合い、殺し合っているのだと納得するだけの映像化がなされていると、まずはその律儀さを評価することはできるだろう。
だが、この律儀さというのが厄介なのだ。それは本来、映画にとっては無用とも言える義務的な志向、性質だからである。実際、すでに多くの人が落胆を隠しつつも控えめに指摘しているように、ここには『怒りのデス・ロード』ほどの驚きやエネルギーはない。
すでに前作のレビューでも述べたが、もし、『怒りのデス・ロード』が2010年代の神話たりえていたとすれば、それは「意味」に「テンポ」が勝り、「物語」に「形式」が勝る過剰なまでの単純さを、上映時間2時間という制約の中に無理矢理押し込んだからこそ、「結果として」成立したものだったのであり、同じカラクリを二度は使えない、そういう手品のような代物だった。
そうした観点からすれば、本作『フュリオサ』に何かが「足りない」わけでは決してない。むしろ、ここには「すべてが律儀に満ちたり過ぎている」のである。
人は、ある完成された物語を、誰がどのような思いで行動しているのか、状況的に理解可能なショットの合理的な配列によって映像化してもらいたいわけではない。何を語るでもなく、映画は時に「ただ映画であるだけで」神話たりえてしまうことを、人は他ならぬ『怒りのデス・ロード』によって教わり、また思い出しもしたからだ。
だが、残念ながらここでの映画は、そんな神話のような話を信じてなどいない。『フュリオサ』にはあくまで映画を「物語」に還元させる力が終始働いており、ジョージ・ミラーは義務的な律儀さで物語を語ろうとし、あまつさえ神話を語ろうとしてしまう。
言うまでもなく、神話的な映画を狙って撮ろうとすること自体、最初から不可能である。
事実、定点撮影の早送りや、並行するショットのオーバーラップという、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の監督ならやるかも知れないが、誰も『マッドマックス』には求めていないであろう紋切り型の演出でいくら「時間の経過」を律義に表現したところで、映画はただ停滞するばかりだ。
結果、前作よりも30分ほど長い上映時間を費やしながら、全体としてはよくある「復讐劇」という、使い古された説話構造の中にすべてが収まってしまっている。さらに言えば、誰もそのことに苛立とうとすらしていないことが、さらなる悲しみを誘うだろう。
復讐に燃え、親の仇でもあり疑似的な「父」でもある男を追って荒野の果てにたどり着いたフュリオサが直面するのは、「俺もお前も結局は同類なのであり、俺をぶちのめしたところでお前の復讐は完成しない」という、あの懐かしい『ダークナイト』的葛藤に過ぎないのだ。
前作とは対照的に、「テンポ」に「意味」が勝り、「形式」に「物語」が勝ってしまっている。それを「映画」の敗北と呼ばずになんと呼ぶのか、残念ながら私は知らない。
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5月31日に封切られたばかりの映画について、「ネタバレ」にならない範囲で言えることはほぼ以上で尽きている。とはいえ、これで終わってはさすがにあんまりなので、以下、さらに具体的な内容にも触れつつ、映画を観ながら連想したことを思いつくままに書き残していこう。
まず、上映中に私がもっとも思い出したのは、意外にもクエンティン・タランティーノだった。荒野を暴力的に疾走する自動車の追跡劇。あるいは、追う者と追われる者が入れ替わり、最後には「私のターン」でクライマックスを迎える起死回生の逆転劇は、安易な連想とは思いつつ『デス・プルーフ in グラインドハウス』を思い出させた。
だが、それが『ダークナイト』的葛藤でスタックしてしまうのはいかにも興ざめだし、追う者と追われる者との優位性を決するものが、結局はエンジンの強さとガソリンの物量でしかないのは、最終戦争後の世界とはいえ、身も蓋もないというか、あまりにも映画的配慮を欠いていると言わざるを得ないだろう。
実際、そのような状態でいくら改造車や改造バイクが不吉な轟音を響かせながら荒野を疾走しようとも、いくら砂漠のロケーションを前作以上に壮大にしようとも、それらはエンジン性能から算出可能な「時間」や「距離」に還元されるしかない。
ヒーローなどいない。最強の武器も車もない。あるのはただ、生存のための絶え間ない決断だけだ、というテンポで走り切った前作とは対照的である。
また、タランティーノということで言えば、2部作により構成され、『1』と『2』で時系列を一部入れ替えながら物語の全貌を少しずつ明らかにしていく点を素朴に捉えれば、『キル・ビル』を思い出したこともそれほど不自然ではないだろうか。
事実、本作も『キル・ビル』と同じく「愛と復讐」を主題としており、蓮實重彦の指摘した「引きのばされた死」が『キル・ビル』の通奏低音であったとするならば、『怒りのデス・ロード』におけるマックスに、解放はおろか死ぬことさえも瞬時には許されていなかったことも説明がつく。
とはいえ、本作はいかなる意味でも『キル・ビル』ほど複雑な復讐劇を形成しているわけではない。それでも、すべてをなげうった女と男が車に乗り込み、世界の果てを目指すために最後の賭けに出る一連のシークエンスは、唐突なロマンスの予感とともにこの『フュリオサ』という映画を束の間ではあるが活気づけるだろう。
運転席と助手席に並んだ二人が正面を向きながら疾走するショットは、ハリウッド映画の亡霊が砂漠を彷徨うようでややアンバランスだが、それまで自らの性別を呪い、軍隊の中でそれをひた隠しにしてきたフュリオサの女性性、そうでなければ彼女の「愛」が、あるアクシデントによってウォー・タンクで不意に発露して以来、絶体絶命のピンチで背後に迫る敵の火炎放射によって最高潮に達するという視覚的な演出は、愛の言葉を交わすことすら許されなかった荒野の戦士たちに相応しい美しさで、フュリオサの愛をたたえている。
これ以上、詳しいことを今は語るまい。それでも未練がましく、最後に一つだけ言い残すのであれば、この2時間30分に及ぶ「前日譚」が撮られたことの貴重さよりも、これを省略したまま『怒りのデス・ロード』が成り立っていた事実、むしろこれを省略「したからこそ」あの神話が成り立ちえたのだという逆説の強固さを、それでも指摘しないわけにはいかないだろう。人は『フュリオサ』を観ずして、すでにこの映画を観ていたのである。
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監督:ジョージ・ミラー
劇場公開日:2024年5月31日