Trash and No Star

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スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』書評|すべてを昔のままに戻してみせるさ

 久しぶりに全体を読み返し、そうだ、『グレート・ギャツビー』は確かにこんな話だったとクリアに思いだした。同時に、いずれまた細かい筋書きはすっかり忘れてしまうだろう、と思わずにはいられなかった。これ自体、ひとつの幻についての回想録であり、ひとつの夢を見るような読書体験でもあるからだ。

 それはきっと、訳者の腕前によるところも大きいのだと思う。ひとりの翻訳家として、「『グレート・ギャツビー』という小説を翻訳することを最終的な目標」にしてきたという訳者が「全力を尽くした」というだけあって、全体がエーテルに包まれたような、ある夏の断片が真空パックされたような甘美さに満ちているのだ。

 それは片時も途切れることがなく持続し、深い余韻を残しながら見事に消えていく。あとには何も残らない。美しく、どこまでも空しい傑作だ。

 

 この超有名作について、何をどこまで書いてしまうことが「ネタバレ」になるのかいまひとつ分からないが、ごくあっさりと言うなら、本作はジェイ・ギャツビーという男が、失われた夢の続きを生きようとする話である。より直接的に言えば、失われた愛をもう一度生きようとする話だ。

 ギャツビーは疑うことなくこう考えていた。自分は特別な資質を備えた人間なのであり、本来であれば、人生のスタート地点からそれに相応しい環境に囲まれているべき存在なのであって、もし仮にそうでなかったとしたら、それは環境の方が間違っている。すべての物事は、本来あるべき形へと「矯正」されなければならない。

 「本来こうあるべきであった」本当の自分へ。完全無欠の、「真の」自分へ。この現実は借り物であり、自分にはこれではない人生が「本当は」あったのであり、僕はそんな自分にこそ相応しい、ただ一人のロマンティック・ガールと約束された愛を分かち合うべきなのだ。ゆっくりと、まさしく一生をかけて。

 

 その妄想じみた確信は、「いかにも十七歳の少年が造り上げそうな代物」かもしれない。しかし、それが彼にとっての唯一の夢であり、緑色の灯火であった。それだけが、ギャツビーという男の人生を突き動かしてきた。それは驚くほどの純粋さであり、同時に手が付けられないほどの狂気でもある。

 もちろん、同時期の短編を通じて確認してきたように、その試みは全くもってうまくいかないのだが。むしろ、過去を取り戻そうとすることでより多くのものを失ってしまうというフィッツジェラルド的命題が、ここでも抜かりなく、沈痛に、また執拗に、息を呑むほど美しく繰り返されているのだ。

 人生は後戻りしない。約束された愛の中に自分が含まれていなくとも、二度と戻ることのないこの時を静かに受けとめていくしかない。フィッツジェラルドがここで表現したのは、そうした残酷さだ。私たちはそれを美しいと思う。100年前の私たちも、100年後の私たちも。きっと同じ痛みを抱えている。

 

 本作に関しては、すでに多くのバージョン違いで翻訳が存在しているように、『グレート・ギャツビー』を映画にしようという欲望がもまた、途切れずに今日まで続いている理由もよく分かる。同時に、その難しさも。

 これを映画にするには、少なくともトッド・ヘインズが撮る映画のような、完全にコントロールされた上質なビンテージ感と、例えばマーティン・スコセッシの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のような馬鹿馬鹿しさを完璧に両立させなければならない。

 それは簡単に言えば、その年の、もっと言えば少なくとも直近5年でもっとも優れた映画を撮ることを意味する。過去に少なくとも3回映画化されている『華麗なるギャツビー』のいずれも観ていないので確たることは言えないが、しかし3回もトライされていること自体、それが達成されていないことの現れなのではないか、とも思う。

 あるいは、本作のあとがきで訳者が言うように、どの監督も互いの映画版を観ながら、「僕の感じている『グレート・ギャツビー』という物語とは、どうしてこんなにも印象が違うものになっているのだろう」と感じているのかもしれない。それくらい、力強く、捉えどころのない世界観が徹底された一作だ。

 

 映画といえば、バズ・ラーマンによる2013年版の『華麗なるギャツビー』の主題歌がラナ・デル・レイで、そのタイトルが「Young and Beautiful」なのは、フィッツジェラルドを原作とした1955年のブロードウェイ・ショーからの引用とはいえ、いささか出来すぎだと思った。あまりにも端的で、あまりにも完璧なタイトルだ。

 「人は永遠には生きられない」――本作中、人生の分岐点の只中にある、とある人物の中で、何度もこだまするフレーズだ。ジャズ・エイジの刹那を生きる、悲しき若者たち。若く、美しい者たち。永遠には続かず、かと言って昔のままに戻すこともできないもの。確かにそれがフィッツジェラルド文学のすべてである。人生が続く限り、それはどうしても失われなければならないのだ。

 

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著者:スコット・フィッツジェラルド
訳者:村上春樹
出版社:中央公論新社村上春樹翻訳ライブラリー〕
初版刊行日:2006年11月10日

フィッツジェラルドの短編を全部読んでみた【PART 1】#JAZZ AGE: 1920-1926

 全部で170以上もあるというスコット・フィッツジェラルドの短編小説を少しでも体系的に、かつ、ひとつでも多く読もうとしたときに最初に困るのは、その作品群が、そもそもほとんど翻訳されていないことと、翻訳されていたとしても、そのレパートリーがあまりにも重複していることである。

 

 例えば、1990年出版の後発組『フィッツジェラルド短編集』(新潮文庫)の解説文で訳者の野崎孝は、文庫のボリュームでわずか数編を選ぶことの難しさを述べた上で、結果的には「村上(春樹)氏のものと重複するのが三篇も含まれてしまった」ばかりか、訳語についても村上春樹から許諾を得た上でいくつか拝借していると正直に書いている。

 逆に、先達から影響を受けてしまうことを避けるために、「それらには一切眼を通さずに訳出作業をすすめた」という佐伯泰樹の『フィッツジェラルド短篇集』(岩波文庫)は、その志は別としても、残念ながら他の既刊ものとレパートリーがすべて重複してしまっている。ここではどうも、「私が考えた最高の翻訳」のようなものが優先されているのである。

 これは、それぞれの短編集なり傑作選が、それぞれ異なるコンセプトで編まれていることの限界でもあるが、あまり良い状況とは――少なくとも、フィッツジェラルドの全貌に迫ってみたいと願う読者としては――言えない。そういった意味でも、村上春樹の翻訳ライブラリーを再編し、(傑作選ではなく)全集に近い形で再構成するのがもっとも手っ取り早いと思うのだが、どうだろうか。

 

 もっとも、村上春樹のような人気作家の努力も空しく、最近はフィッツジェラルド自体、日本ではそれほど人気もないということだから、永山篤一の『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(角川文庫)や、小川高義の『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫)といった、未訳の作品を埋めていく誠意ある試みが単発的にはあっても、状況を根本から変えるような大きな動きはしばらくないのかもしれない。

 それでも、フィッツジェラルドが描くあの「翳り」の感覚は、『グレート・ギャツビー』の出版から100年になろうとしている今も色あせていないと私は思う。これからも多くの読者に発見されて欲しいと思うし、何かの間違いで、これからフィッツジェラルドを読んでみようという中学生や高校生だっているかもしれない。

 そんな「これからやってくるかもしれない読者」に向けて、いま把握している限りの、翻訳で読むことのできるフィッツジェラルドの短編小説を一度整理しておきたいと、ふと思った。1920年にデビューし、1940年に楽園の向こう側に行ってしまうまでの約20年のキャリを3回に分けて紹介できればと思う。

 

 最初の1回は、“JAZZ AGE”と題して1920年から1926年までのキャリアを扱うことにした。

 1926年で区切る合理的な理由は実はないのだが、それでももっともらしい理屈を並べるのなら、第一に、代表作『グレート・ギャツビー』の出版が1925年であり、その後は1934年の『夜はやさし』まで長く深い断絶があること。第二に、三冊目の自選短編集『すべて悲しき若者たち』の出版が1926年であり、そこには初出が1926年の作品までが収められており、その後の自選短編集は1935年まで出版されないこと。第三に、1927年には伴侶であるゼルダに体調不良の兆しが出始めたと言われていることなどを踏まえた結果である。

 まとめるなら、1920年から1926年までの数年は、フィッツジェラルドにとってまさにパーフェクト・ライフ、順風満帆、怖いものなし、桁外れの成功を謳歌する日々だったはずである。もちろん、その商業的成功を文学的な最盛期と素直に呼び得るかは分からないが、作品世界にも何かしらの影響があったと考えてもそう不自然ではないと思う。少なくとも、全体量の関係もあって、一度ここで切ることにした。少しでも、誰かの何かに役立てば幸いである。

 

 なお、複数の翻訳がある場合、邦題は個人的にもっともしっくり来たものを選んだ。また、原題は翻訳に添えられた出典を当たり、最終的な確認作業はすべて英語版のWikipediaに拠った。さらに、紹介順序は初出の順としたが、個人的な読書記録として、普段はあまりやらないレーティング(五つ星満点)を一つ一つ考えたので、一応付記しておいたが、無視してもらって一向に構わない。

 すっかり前置きが長くなってしまったが、フィッツジェラルドの初期短編小説およそ20篇、それでは行ってみよう。

 

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バーニスの断髪宣言
Bernice Bobs Her Hair, 1920

★★★★

 バーニスは、並の男ならば失神してしまうほどの美人で知られる女の子。だが、生真面目に育ったがゆえに中身はとにかく退屈で、同年代の男の子や女の子とくつろいで過ごすことができない、ザ・優等生タイプの女の子でもある。いわゆる、「空気が読めない」という状態なわけだが、本作はそんなバーニスの苦々しい社交界デビューを描いた佳作で、今風に言えばスクールカーストものとして読めるかもしれない。

 そんなお堅いバーニスも、年上で恋多き従妹・マージョリーの手ほどきを受け、一時は本格的な「モテ期」に突入するのだが、調子に乗ってマージョリーを怒らせてしまい、彼女の青春は再び暗転していくのであった。そこからの抑圧と、抵抗と、意地っ張りの物語は、最後にとんでもない切れ味の展開を見せる。歯医者の待合室で溜飲を下げるにはもってこいの、近年の翻訳がないのが不思議なくらいの快作だ。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『ジャズ・エイジの物語』(荒地出版社・絶版)

 

 

氷の宮殿
The Ice Palace, 1920

★★★★★

 とびきり美しく、極めてアメリカ的な作品でもある。北部の男と南部の女の不安定なロマンス、というのはフィッツジェラルドの小説世界では定番中の定番であるけれども、本作ではどちらかと言えば南部の女の方に視点が置かれているのがポイント。アメリカ南部の文化や空気、精神のようなものすべてを全身で愛しつつも、身体の内側からとめどなく溢れてくるエネルギーを試すために、北部の進歩性や自由を求めてしまうジレンマを抱えた彼女は、デートの道すがら、結婚を約束した男を南軍の共同墓地へと連れていく。そのシークエンスの美しさと言ったらもう。

 こういっては変だが、時代が異なり、戦争そのものが二人を離ればなれにしてくれた方が、まだメロドラマとしてシンプルだったかもしれない。だが現実は残酷で、南北戦争後のアメリカで運命のように強く惹かれ合った若き恋人たちが、その燃えるような愛をもってしてもなお、南北アメリカの精神的な距離のようなものによって決定的にすれ違っていく過程が淡々と描かれているのである。ビートルズのベスト・ソングに「レット・イット・ビー」を挙げるような愚行かもしれないが、なんの躊躇いもない。フィッツジェラルドの初期短編小説、これがそのベスト・ワンだ。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『ジャズ・エイジの物語』(荒地出版社・絶版)
村上春樹訳『マイ・ロスト・シティー』(中央公論新社
野崎孝訳『フィツジェラルド短編集』(新潮文庫
村上春樹訳『フィッツジェラルド10 傑作選』(中公文庫)

 

 

カットグラスの鉢
(The Cut-Glass Bowl, 1920

★★★1/2

 美貌で知られる新婚のパイパー夫人の家には、かつて彼女が適度にキープして容赦なく振った男からもらった、巨大なカットグラスのボウルがある。その大きさと贈り主を別とすれば、なんてことはない、ただのボウルである。しかし時が流れ、パイパー夫人も歳を取るにつれて人生の下り坂が緩やかに始まると、いろいろなアクシデントが起きるようになってくるのだが、そうした時、必ずと言っていいほどこの巨大なボウルが彼女の視界に入ってくるのである。

 彼女には次第に、すべての不運が、このボウルが意思を持って、悪意によって招いたものなのではないかと思えてくる。一度こうした疑念に囚われると、もう戻ることはできない。彼女はボウルを相手に戦いを挑み、錯乱し、真の破滅を迎えることになるのだった。異色といえば異色だろう。まるでアルフレッド・ヒッチコックのサスペンス映画でも見ているような、抑制された不穏さが心地よい(ある種の)恐怖小説だ。

【どこで読める?】

村上春樹訳『バビロンに帰る』(中央公論新社
村上春樹訳『フィッツジェラルド10 傑作選』(中公文庫)

 

 

メイデー
(May Day, 1920

★★★★

 フィッツジェラルドの小説らしく、ここでもひと時の、人生で一度しか訪れない美しい愛が描かれている。そして、その喪失も。愛と喪失。フィッツジェラルドの小説ではこの二つが常にセットだ。そして、愛は記憶の中でこそ美しく、一度蓋をしてしまったものは、決して開けてはいけないのだ。浦島太郎が持たされた玉手箱みたいに。

 本作では、残念ながら玉手箱は開けられてしまうのだが、失われた恋人たちの再会から別離までの、その高揚と失望までの起伏が何とも素晴らしい。「愛は脆いものだ」――変わり果てた最愛の男と空しいダンスを演じながら、町で一番の美女・イーディスは思うのだった。そして彼女は、最愛の恋人の幻と踊りながら、確信するのである。「私はまた誰かと恋をするだろう。だが、それはもうこの人ではないのだ」と。

 一方、反社会主義デモ(暴動)を扱った後半は全体からするとややチグハグな感じがして、自分はあまり好みではなかった。あまり力み過ぎずに、もう少し上手にまとめることのできた作品だと思う。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『ジャズ・エイジの物語』(荒地出版社・絶版)
村上春樹訳『冬の夢』(中央公論新社
◎佐伯泰樹訳『フィッツジェラルド短篇集』(岩波文庫
村上春樹訳『フィッツジェラルド10 傑作選』(中公文庫)

 

 

ジェリービーン
(The Jelly-Bean, 1920

★★★★1/2

 村上春樹の翻訳ライブラリー以外では訳出されていない、レアな作品。あらすじとしては、ジェリービーン(のらくら者)というあだ名で親しまれているジム・パウエルが、街中の男が惚れている女・ナンシーと出会い、人生で初めて味わうことになる電撃的恋愛を描いた(だけの)小話なのだが、そのお相手に相応しいとは――少なくとも、常識的な見地からは――思えない男の視点から語られる物語という点でも珍しい作品である。

 すべてが夢を見るように過ぎ去り、物語の最後にはまた元の場所へと戻ってくるという点では、最高傑作「氷の宮殿」と同じ構造であるが、いい意味で、あそこまで重いものは何ひとつ背負っていない。だからこそ、類書での訳出がまったくないのだろうが、私はむしろその軽さを肯定的に捉えている。不確かな恋は、人生をまるっきり変えてしまうものだし、だからと言って決して我々の期待に応えることはないのだ。ジェリービーン、君はなにも間違っちゃいないよ。

【どこで読める?】

村上春樹訳『バビロンに帰る』(中央公論新社

 

 

残り火
(The Lees of Happiness, 1920

★★★★1/2

 ある流行作家と女優との燃えるような恋。いま思えば、美しい妻をもらったものの、夫の方がある日突然植物状態になってしまうというストーリーは、フィッツジェラルド自身の未来をも暗く予見するかのようだ。その後、妻は健気な看病を続け、彼女を優しく見守る男も現れる。読者がつい想像し、身構えてしまう結末は、主に二つあるだろう。古い愛が奇跡的に蘇るか、あるいは新しい場所へと移ろっていくのか。それはどちらに進もうとも、安っぽいハッピーエンドにしかならないわけだが。

 フィッツジェラルドはしかし、新人作家とは思えぬ厳粛さで物語をコントロールし、二人の希望の残り火が完全に消えてしまうまでの過程を見事に描き切っている。脚色なしに、私はそのあまりにも美しいラストに茫然としてしまった。村上春樹以外の訳出はないようだが、これを1981年に出されては、他の人にはなかなか手が出せないというのも無理はないかもしれない。傑作。

【どこで読める?】

村上春樹訳『マイ・ロスト・シティー』(中央公論新社
村上春樹訳『フィッツジェラルド10 傑作選』(中公文庫)

 

 

山娘ジェミナ
(Jemina, 1921

★★

 ケンタッキーの山奥で密造酒造りを競い合う、タントラム家とドールドラム家の仁義なき抗争を描いた一作。「家具工房の外で」と同じくらいの長さのショートショートだが、こちらはあまり力の入っていない間に合わせの一作という印象を受けた。

 とはいえ、冒頭に「これは文学作品を気取ったものではない」と書かれてしまっているので、こうした真面目な指摘自体、あらかじめ消化済みなのだろう。抗争激化のどんちゃん騒ぎの中、どさくさに紛れてロマンスを描いてとっとと話を仕上げてしまうあたり、フィッツジェラルドだなと思う。

【どこで読める?】

中田耕治編訳『スコット・フィッツジェラルド作品集』(響文社)

 

 

ベンジャミン・バトン 数奇な人生
(The Curious Case of Benjamin Button, 1922

★★1/2

 デビッド・フィンチャーにより映画化(主演はブラッド・ピットだ)もされており、ある意味、日本においては『グレート・ギャツビー』なんかよりも有名な作品かもしれない。恥ずかしながら映画はまだ観ていないのだが、少なくともこの短編小説について言えば、「ある男が70歳ほどの老人として生まれ、そこから歳を取るたびに若返っていく」というかの有名な設定だけが先走っているように思えて、文学的な深まりはほとんど感じられなかった。彼の父親も、妻も、あるいは息子も、「こういう事態になれば、そりゃあこう思うわな」という域を出ない描写ばかりで、素直に名作として薦めるにはいささか名前負けしているかもしれない。とはいえ、角川文庫による貴重な訳出には敬意を表したい。

【どこで読める?】

◎永山篤一訳『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(角川文庫)

 

 

リッツ・ホテルのように大きなダイアモンド
(The Diamond as Big as the Ritz, 1922

★★★★

 フィッツジェラルドが、なにもメランコリックな恋愛小説だけを書いていたわけではないことを示す好例。「アメリカの秘境にダイヤモンドでできた山があり、そこでは特大級のダイヤモンドが採り放題。その一帯を黒人奴隷を引き連れて独占する大富豪がいて、文字通り天文学的な資産を駆使してその秘密を完璧に維持している」というSF的、陰謀論的設定が強烈だ。

 サイズはほぼ中編で、全体としてやや冗長な感は否めないが、サスペンスの要素もあり、少年と少女の生き急ぐような大恋愛もあり、初期フィッツジェラルドの中でもっとも「村上春樹的」な作品と言えるかもしれない。村上春樹を頼ってフィッツジェラルドを読んでみたいんだよね、というファンの方は、まずはこの一作を狙い撃ちで読んでみてもいいだろう。宝塚歌劇でも上演されている。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『ジャズ・エイジの物語』(荒地出版社・絶版)
村上春樹訳『冬の夢』(中央公論新社
◎佐伯泰樹訳『フィッツジェラルド短篇集』(岩波文庫

 

 

冬の夢
(Winter Dreams, 1922

★★★★1/2

 別にどこかで再会できる自信があったわけではない。ビジネスで成功できる確信があったわけでもない。ただ、ある女性に見せられた「冬の夢」に突き動かされるようにして人生を切り開いてきた男・デクスターが、ありとあらゆる男たちを泣かせてきたその美しい女・ジュディーに相応しい男となって彼女の前に再び現れるとき、「小説みたいな」ロマンスは約束されているかのように思える。

 しかし、それは喪失のはじまりに過ぎないのである。約束されたかに思えた二人のロマンスも、いつしかお互いを試し、揺さぶり、傷つけるものへと変質していく。結局のところ、Love Is A Losing Gameでしかないのだ。その後、二人の関係がどうなってしまうのかには触れずにおくが、長い間、彼を突き動かしてきた愛も、そして根源たる「冬の夢」までもが、すでに自分の中から失われてしまったことに気が付いたとき、人生が静かに遠のいていくのを彼は感じるのだ。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『ジャズ・エイジの物語』(荒地出版社・絶版)
村上春樹訳『冬の夢』(中央公論新社
野崎孝訳『フィツジェラルド短編集』(新潮文庫
◎佐伯泰樹訳『フィッツジェラルド短篇集』(岩波文庫
小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫
村上春樹訳『フィッツジェラルド10 傑作選』(中公文庫)

 

 

温血と冷血
(Hot & Cold Blood, 1923

★★★★

 ある種の怪談のようなショート・ストーリー。人が良すぎて知人・友人にバンバンと金を貸し、地下鉄でもすぐに人に席を譲ってしまうような男が、妻に「あなたってプロのお人好しなんだわ」と責められたことをきっかけに、優しすぎた過去の自分を悔いて、今は亡き父の窮地を救ってくれた恩人が金を貸して欲しいと手を震わせながら頼み込んでこようと、満員の地下鉄で自分の前にいかにも体力のなさそうな女がふらふらしながら立っていようとも、いや俺はもう変わったんだと。ここで人に優しくしているから俺はいつまで経ってもダメなんだと自分に言い聞かせ、すべてのSOSを無視していく作戦を決行するのだが・・・。歯医者の待合室で読んでもいいが、「通勤時の満員電車での死ぬほど退屈な30分を共に過ごすにはうってつけ」な作品だと思った。

【どこで読める?】

小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫

 

 

レッチェンのひと眠り
(Gretchen’s Forty Winks, 1923

★★★

 かつては愛し合っていた男女が、夫の事業の失敗によってギスギスし始める。すぐに離婚というわけではないが、生活は苦しい。「次こそは、次こそは」と空手形ばかりを切る夫に、そろそろ愛想を尽かしそうな妻。そこに忍び寄る不貞の予感。

 結婚後のリアルな暮らしぶりを、人生の墓場としてコミカルに描く、フィッツジェラルドの定番パターンの一つではあるが、いよいよ追い詰められた夫の取る行動は相当イタい。そもそも、恋敵に向けて「こりゃまた二十年は遅れてる女性観だな」と啖呵を切る夫ではあるが、しかし全体とすれば、ここでの妻は男たちの争いの戦果=トロフィーとして描かれており、仮に夫が敗者復活戦に勝ったとしても、この夫婦が抱えている問題は引き延ばしにされるだけだろうな、とは思った。

【どこで読める?】

小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫

 

 

罪の赦し
(Absolution, 1924

★★★1/2

 もし、本作がフィッツジェラルドにとって多少なりとも自伝的な要素を含む作品であるのなら、彼がどういった抑圧の中で育ち、そこから逃れてきたのかが垣間見えるような一作だ。登場するのは司祭や神父、信仰を強要する父と僕(ルドルフ少年)、それからもちろん、イエス・キリストといった面々で、題材となっているのは告解や聖体拝領など、どこまでも宗教的なものばかりである。お馴染みのロマンスはなく、村上春樹は「もっともシリアスな作品のひとつ」と評している。

 宗教それ自体はもちろん、信仰を題材に「父的なるもの」を相手にした反抗が描かれており、神聖な信仰の反対側に、「言葉では言い表せないくらいきらびやかな何か」や、それを求める「発熱と汗と人の営み」が対置されるとき、ルドルフ少年は自らの人生を何が照らすのかを確信するだろう。こういう言い方が正しいかは自信がないが、とにかくこれはアメリカ的な作品である、と言うほかない。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『ジャズ・エイジの物語』(荒地出版社・絶版)
村上春樹訳『冬の夢』(中央公論新社
小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫

 

 

分別
(The Sensible Thing, 1924

★★★1/2

 あらすじの大枠としては、傑作「冬の夢」の変奏とも言えると思う。後述する「あの夜の愛」もそうだが、「今は無理でも、いつかこの女性に相応しい男になって俺は戻ってくるぜ」という高潔で、イタい、ナルシシズムすれすれの夢がフィッツジェラルドの小説ではしばしば登場するが、ここでは大胆な時間的省略によって、ある種のハッピーエンドに手っ取り早くつなげている。その安易さにおいて間に合わせの一作という印象は免れないが、本当の意味では愛が失われていることに変わりはなく、最後の美しい一文さえ読めば、なるほどこれは間違いなくフィッツジェラルドの小説であると、どんな人でも納得するはずだ。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『ジャズ・エイジの物語』(荒地出版社・絶版)
小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫

 

 

ベイビー・パーティー
(The Baby Party, 1925

★★★1/2

 フィッツジェラルドの小説では、男も女も恋愛の最高到達点としての「結婚」に並々ならぬ熱意を燃やしているが、同時に、それは常に人生の墓場として描かれているという意味で、極めて通俗的な作家だとも言える。

 一方、本作もまた、「結婚」というものが象徴する実人生のみじめさを根っこにしているという意味では同じなのだが、そのみじめさの中に「小さな、本当の愛」を見い出そうとしている、という意味で興味深い作品になっている。子どもを育てる新婚サラリーマンの心情や、子どもへの眼差しがとてもリアルに描かれていて、フィッツジェラルドの書いた大衆小説の中ではいまだにアクチュアルなのではないだろうか。

 私はこの作品を読んで、華やかなイメージが先行しがちなフィッツジェラルドも、案外レイモンド・カーヴァーと近い場所にいた作家だったのではないか、と思った。侮辱の応酬や勘違いからの乱闘騒ぎなども、もうこうなったらどんどんやれと言うほかないやけっぱちな楽しさに満ちている。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『すべて悲しき若者たち』(荒地出版社・絶版)
村上春樹訳『冬の夢』(中央公論新社
小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫

 

 

あの夜の愛
(Love in the Night, 1925

★★★

 「音楽と、あでやかな色彩と、ひそめた声の甘美さ」といった、フィッツジェラルドの小説を彩る典型的要素それ自体が題材になっているという意味で、1925年作にして極めて自己言及的な作品だと思った。高い身分にあった男が社会の変動(主には戦争)によってそこから転落し、あるひとつのロマンスの記憶を抱えながら生きるというストーリーも、フィッツジェラルドの短編としては典型的パターンの一つだろう。

 本作がそれらの類似の作品と異なり、(残念ながら)それゆえに凡庸と言わざるを得ないのは、「敗者復活」というハッピーエンドをロマンティックに描いていることである。正直、このストーリーであれば他の「ストレートな」作家に譲った方がよさそうだが、一定の節度の中で提供されるエンディングの甘すぎない後味は悪くないし、青木悦子氏の翻訳はフレッシュだ。

【どこで読める?】

中田耕治編訳『スコット・フィッツジェラルド作品集』(響文社)

 

 

調停人
(The Adjuster, 1925

★★

 とても惜しい作品だ。「自分の子供でさえ、いやになるの。おかしいと思うでしょう。(中略)もちろん、すごくかわいいのよ。だけど午後からずっと面倒を見るんだと思うと、なんだか叫びたくなる」という若き主婦、ルエラ・ヘンペルの告白によって幕を開ける本作は、仕上げ方を変えていれば、100年後に読んでもアクチュアルなフェミニズム小説にもなり得ていたのではないだろうか。

 そう、本作の読みどころは、時間の経過とともに家庭に落ち着いていく(あるいは、そうすべきと諦めさせられていく)ルエラの「母性溢れる」変化などではなく、魂の叫びと言うほかない、育児や家事の負担、というかそれを女性に求めてくる空気に対する率直な異議申し立ての部分である。残念ながら後半は、要するに「女は夫と子供と家庭のために結婚後の人生は捨てろ」と言っているのであって、時代の、あるいは作家としての限界を感じてしまう。

【どこで読める?】

小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫

 

 

リッチ・ボーイ
(The Rich Boy, 1926

★★★★

 小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社)では、「特定の個人を指すというよりは、ある類型の総称という印象を強めたい」という理由で「お坊ちゃん」という邦題で訳出されているが、「僭越ながら先人たちがつけているどの邦題も訳者の感覚ではしっくりせず」という佐伯泰樹『フィッツジェラルド短篇集』(岩波文庫)では、逆に「”坊ちゃん”、”若旦那”に類する語はそぐわない」とされているので、邦題が安定していないことはあらかじめ断っておきたい。

 その上で言うと、私は「ある類型」としてではなく、あくまでもアンソンというニューヨークの上流階級出身の特定の個人の物語として読んだ。それはアンソンという超金持ちのイケメンが、人生最大の恋を捧げた相手も、その後に唯一訪れた本気の恋の相手も、自分の優位性を信じて「キープ」しているうちにどこかへ行ってしまい、永遠に失ってしまう(だけの、と言えばだけの)物語である。

 重要なのは、アンソンがそこで本当に傷ついてはいない、という点だろう。選ばれし者と、持たざる者を分けるのは、「人生のさまざまな慰めや安らぎ」を自分から見つけなくてはならないのか、あるいは、常に誰かが与えてくれるのか、という違いである。圧倒的な前者であるアンソンは、結局のところ、誰にもそれを分け与えることができなかったのだ。

 村上春樹フィッツジェラルドの短篇ベスト5を選ぶのなら「まず落とせない作品であるだろう」と断言しており、世間的評価の高さについて言えば、訳出の多さが何よりもそれを物語っているだろう。

【どこで読める?】

◎渥美昭夫・井上謙治編『すべて悲しき若者たち』(荒地出版社・絶版)
野崎孝訳『フィツジェラルド短編集』(新潮文庫
◎佐伯泰樹訳『フィッツジェラルド短篇集』(岩波文庫
小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫
村上春樹訳『フィッツジェラルド10 傑作選』(中公文庫)

 

 

ダンス・パーティの惨劇
(The Dance, 1926

★★★

 ニューヨーク生まれの「わたし」の回想録として描かれる、ある報われない恋と殺人事件のショート・ストーリー。ここでも南部は、ある特別な、象徴的な意味を持たされているが、物語の基調となっているのは、いつも通り、若者たちが演ずる取った取られたの恋のから騒ぎであり、あるいは、デビュー前の習作「レイモンドの謎」を思い出させるミステリー要素もスパイスになっている。

 その分、登場人物たちの個別の描写はいささか物足りなく、渦中のチャーリー・キンケイドでさえ、婚約中の身であることから「わたし」との一線を越えてこないことの誠実さ(もしくは慎重さ)らしきものは描かれているが、それ以外は何を考えている人間なのか皆目見当もつかない。小説というよりは、映画のシナリオに向いているかもしれない。

【どこで読める?】

◎永山篤一訳『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(角川文庫)

 

 

ラッグズ・マーティン=ジョーンズとイギ○スの皇○子
(Rags Martin-Jones and the Pr-nce of W-les, 1926

★★★★

 まさしく「歯医者の待合室での退屈な30分を共に過ごすにはうってつけ」な作品だ。出足こそ、見込みのない恋にしがみつくストーカー男・チェスナットの醜態が痛々しく、ややもたもたするのだが、フィッツジェラルドお得意の恋のから騒ぎとサスペンス的要素がうまく混じり合い、ハリウッド的な小気味よいハッピーエンドへとなだれ込む全体のグルーブ感は最高。

 美しさも富もすべてを手に入れてしまった高慢な女・ラッグズは、はたしてお忍びで渡米中の英国皇太子とお近づきになれるのだろうか。また、ラッグズに思いを寄せるチェスナットは、ただこのままかませ犬としてむなしく敗れ去ってしまうのだろうか。愛は金では買えないと人は言う。ならば奪うまでだ。

【どこで読める?】

小川高義訳『若者はみな悲しい』(光文社古典新訳文庫

 

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 以上、駆け足でしたが、お楽しみいただけたでしょうか。次回はPART 2(1927-1934)でお会いしましょう。(いつ更新できるかは不明)

 

スコット・フィッツジェラルド『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』書評|まずは貴重な訳出に感謝を

 2009年刊行。デビッド・フィンチャーによる表題作の映画化にあわせた出版ではあるが、山っ気はなく、あとがきにもあるように、「いままで日本であまり語られてこなかった、ミステリーやファンタジーにおけるフィッツジェラルドの作品をまとめられないか」という誠実な問題意識に基づき、それまで未訳だった(あるいは2009年の時点で翻訳を入手することが困難になっていた)短編が7作も訳出されている。

 それだけでも、これからフィッツジェラルドの短編小説を追いかけようと思っている人には必携の一冊になるだろう。少なくとも日本語圏において、フィッツジェラルドの短編の扱いに関しては、何よりも「ダブり」がネックになっているからである。『夜はやさし』と同じく、エドワード・ホッパーの油絵でシックにまとめた装丁も美しく、いかなる意味においてもまずは「買い」の一冊である。

 

 一方、肝心の収録作の方はどうかと言うと、正直な話、私には「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」がさしたる傑作には思えなかったことを最初に断っておきたい。

 「ある男が70歳ほどの老人として生まれ、そこから歳を取るたびに若返っていく」という、かの有名な設定ばかりが先走っているように思えて、文学的な深まりはほとんど感じられなかったのだ。彼の父親も、妻も、息子も、「こういう不思議な人が身近にいたら、まあこうなるっすよね」という至極あたり前の反応ばかり示すので、わざわざこのSF的設定を持ち出してまで何を描きたかったのか、ハッキリとしないのである。

 恥ずかしながら映画の方は観ていないのだが、これで165分(!)を使うのなら、妻よりも大幅に若くなってしまった大学時代に運命の大恋愛を描くとか、紋切り型のメロドラマであれ何であれ、それなりにエッセンスを足さないと厳しい気がした。

 

 このほか、デビュー前の習作ミステリー「レイモンドの謎」や、犬の視点から物語が語られるキャリア後期の「モコモコの朝」などもユニークだが、フィッツジェラルド的世界観を思いっきり堪能するなら、1929年の「最後の美女」は必読だろう。フィッツジェラルドの個人史に照らせば、これまた「自伝的小説」と呼ばれ得るだろうが、若き米兵たちが、配属になった基地の街で地元の女子たちと恋のから騒ぎに明け暮れる、お馴染みの物語である。

 ハーバード大学卒業の「わたし」と、軍の同僚が恋人候補として熱を上げていた南部美人、アイリー・カルホーンとの出会いは、もしかしたら運命的なものだったかもしれない。だが、同僚のことを思い、友達以上・恋人未満の距離を紳士的に保つうちに、そうした可能性は消え去ってしまった。それが「わたし」の人生にとっていい事だったのかは分からない。それを確かめるべく、思い切って最後の「賭け」に出るのだが・・・。

 いかにも数日で書き上げられた作品、といった雰囲気が漂ってはいるが、「失ったものを取り戻そうとして、さらに多くのものを失ってしまう」という、フィッツジェラルドの典型的パターンによりビターに仕上げられた名作である。「アメリカ南部」というものが、フィッツジェラルドの中でいかに象徴的な場所なのかがよく伝わってくる。書店にふらっと行って買える本の中では本書が唯一の収録先であり、強くおすすめしておきたい。

 

 このほか、珍しさという点では1926年の「ダンス・パーティの惨劇」も見逃せない。ニューヨーク生まれの「わたし」の回想録として描かれる、ある報われない恋と殺人事件のショート・ストーリーなのだが、調べた限り、絶版本も含めて本作以外での訳出はなく、なるほど、フィッツジェラルドにはこういう一面もあったのだと、訳者のセレクトに納得させられる。

 ここでも南部は、ある特別な、象徴的な意味を持たされているが、基本はいつもの通り、若者たちが演ずる取った、取られたの恋のから騒ぎであり、デビュー前の習作「レイモンドの謎」を思い出させるミステリー要素も適度なスパイスになっている。その分、登場人物たちの個別の描写はいささか物足りなく、小説というよりは、映画のシナリオに向いているようなエンタメ作品である。

 

 もうひとつの傑作「異邦人」については・・・・・・またどこかで書く機会があるだろう。全体的には、読む前から決まり切っているような感想しか出てこなかったけれども、フィッツジェラルドの翻訳全体を前進させる貴重な一冊だ。同じようなコンセプトであと3冊くらい出してもらいたい。

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著者:スコット・フィッツジェラルド
訳者:永山篤一
出版社:角川書店〔角川文庫〕
初版刊行日:2009年1月25日