The Bookend

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

ユホ・クオスマネン監督『コンパートメントNo.6』映画評|世界の果てへの旅

(画像は公式Twitterから転載)

 

 モスクワから、世界の果てのような北部の街・ムルマンスクへと向かう寝台列車で、一組の男女が相席となる。

 男から見れば、女は、かわいいけど不愛想。イヤホンで音楽を聴いたり、窓の外に向かってビデオカメラを回したりするばかりで、世間話もできない気取ったやつ。いつも仏頂面で、イライラしていて、いったい何が楽しく生きているのかまったく想像もつかない。

 女から見れば、男は、自分が住んでいる文化的な世界とはおよそかけ離れた、低俗で野蛮な人間。暇さえあれば酒を飲み、ぐいぐい絡んでくる。興味本位の質問が、とにかくだるい。距離の詰め方がウザい。いったい何のために生きているのか想像もつかない。

 

 およそここに、ロマンスの予感などないと言ってよい。階層が違い過ぎるし、共通の話題が何もない。隔てられた世界は、隔てられたままの方が居心地が良いし、何もいじることはない。わずか数日の移動だ、身の安全を守りつつ、適当にやり過ごしておけばいい。ひとたび駅に降りれば、もう二度と会うことはない他人同士なのだ。あとちょっとの辛抱じゃないか、あとちょっとの。

 

 その女・ラウラの振る舞いを見ていると、素性の知れない男と相席になってしまったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、都会暮らしの人間はもはや他人を犯罪者予備軍としか見ていないのだな、ということがよく分かる。

 人との距離も、うんと遠く取る。電車でたまたま相席になった人間と世間話をするなんて、時間つぶしにしてはコスパが悪いし、そもそも自分にとって何のメリットもない。変に優しくして勘違いされたら困るし。

 そんなことよりも私は、もっと文化的なもの、価値があって崇高なもの、深くてリアルな物事を勉強しなければならないのだ。こんな男に構っている暇はない。ちょっとでもレベルを上げて、クリエイティブ系の恋人に相応しい相手にならなければ。

 この旅だって、北の果ての大地でペトログリフ(岩面彫刻)を見ることによって、自分の文化的なレベルを上げるためのものなのだ。本当は、自分はこんな汚い寝台列車に乗るべき人間ではないのだし、この男だって、本当は自分なんかとは出会うことすら難しい人間のはずなのだ。

 

 ならば本作は、そうした階層の差を(あるいは、それが象徴する何かを)男女がロマンティックに乗り越える不器用な恋愛物語なのだろうか。

 もちろん、そのように語ることもできるだろう。だが、それだけを目指した作品では決してないと思う。女には――相手はひと時の遊び相手くらいにしか思っていないかもしれないが、一応は――恋人がいるわけだし、新しい出会いを求めて旅に出たわけではない。人生に起こり得る事故のような出会いを、あくまで事故として描くことに徹した作品だ。

 

 実際のところ、たまたま予約した寝台列車でたまたま相席になっただけの相手が、自分にとってたまたま特別な意味を持つなんていうことはあり得ないだろう。リチャード・リンクレイターの出来すぎた映画じゃないんだから。と、普通は思う。

 だが、この映画を観ていると、不思議とこうも思う。「たまたま予約した寝台列車でたまたま相席になっただけのだるい男が、どうして自分にとっての100パーセントの相手であってはいけないのか?」と。どうして人生は、そんなにも閉じられていなければいけないのか?

 クソまずい密造酒。貧乏くさいみかん。文学とも音楽とも無縁の、距離感をわきまえないありきたりな世間話。男が彼女に提供するのはそんなものばかりだ。しかしどうしてそこに、人生の真実が含まれていてはいけないのか? どうしてそう想像することすら許されないのか?

 最初は階層の異なる野蛮な男にしか思えなかった寝台列車の同席者は、「いまここにあるもの」で楽しんで生きる方法を知っている人間として、観念的・依存的になっていた彼女の人生を、さしたる共感もないかわりに笑わずに受け止めてくれる。彼女にとってそれは、肯定と気付かぬほど小さな、だが確かな肯定だったのだ。

 

 お洒落さゼロ、サブカル要素ゼロ。本作は、ワーキング・クラス版の『ビフォア・サンライズ』を喰らいやがれ、といった渾身の一作として、まずある。だが決して狭義のロマンス映画ではないし、その観点から無邪気に肯定してしまえば、勘違いおじさんの妄想を応援、ということにもなりかねない。

 さらに身も蓋もない話をすれば、そもそも、そんなによくできた映画でもないと思う。いい脚本といい役者さえあれば、どのような撮影でも映画になる、と固く信じているタイプの監督と見えて、ほぼハンディで撮られたであろう素朴な映像は、「低予算」とか「インディペンデント」とか、そうした使い古された言葉で十分に予期し得る範囲での「良質さ」を一歩も出ることはないのだ。

 特に夜、走行する車の中にカメラを思い切って持ち込むものの、おそらく照明関係はほぼセットされていないのだろう、ありのままのリアルな映像と言えばそれまでだが、そこで撮られる闇は美しさからはほど遠い。なるほど、この監督はそこにいい役者がいればこれでも映画になると思っているのだな、という違和感が物語への没入をかえって妨げてしまう。

 

 それでもなぜ、この映画は特別なロマンティック・ムービーたり得ているのだろうか。それは人生が、本当はこんなにも開かれているのだ、ということの目の覚めるようなロマンが、この二人に託されているからだ。その意味においてのみ、この映画は何かしらのロマンを描いている作品なのだと言える。

 実際、二人がある種のセオリーを辿り、男女としての紋切り型のロマンスを予感してしまった瞬間に陥るぎこちなさはどうだ。二人が胸を躍らせたのは、人生がこんなにも開かれているのだという可能性そのものに対してであり、決してその結果としての「実際的な恋愛」ではなかったのである。

 

 まだ上映している映画館もあるくらいだから、彼女が冬季封鎖された北部の街で、無事ペトログリフ(岩面彫刻)を見ることができたかどうかには触れずにおこう。それが物語の第一の目的であると同時に、いつしか副次的な目的でしかなくなっていくからだ。

 きっと人生は、そこを歩もうとする人にだけ、開かれているのだろう。彼女はそれを学ぶ。世界の果てのような場所に命がけで向かう中で、そんな当たり前のことをようやく学ぶのだ。今までどれだけの人生を無駄にしてしまったのだろう。彼女の人生はまだ、始まってすらいなかったのだ。

 だからこそ、男から届けられる時間差のメッセージは、世間知らずだった彼女自身に対するメッセージとして、「文字通りに」こそ読まれなければならない。後悔を責める言葉として。あるいはもっと大きな、100パーセントの祝福の言葉として。

 

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監督:ユホ・クオスマネン
劇場公開日:2023年2月10日

 

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サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』書評|演劇が終わっても人生は続く

 二人の男が、「ゴドー」なる人物を待っている。一本の木の前で、土曜日に待ち合わせ、という約束になっていた。しかし、ゴドーは一向に現れない。いつまで待ってもやってこない。

 次第に二人は、昨日もここに来て、こうして同じように待っていたような気がしてくる。仮に、昨日もこの場所に来ていたのだとすれば、昨日が土曜日だったのか? しかし、結果としてゴドーに会えなかったということは、昨日は土曜日ではなかったということなのか?

 で、今日こそはということでまたここに来たのに、またもや会えないということは、いったい今日は何曜日なのか? ゴドーはすでに行ってしまったのかもしれないし、あるいはこれから来るのかもしれない。分からない。もはや本当のところは誰にも分からない。

 こうなってくると、約束自体が怪しく思えてくる。約束の際、ゴドーは「考えてみよう」と答えたというが、その言葉の曖昧さ以前に、もはやゴドーが実在するかさえ定かではない。我々は、本当に誰かと約束をしているのか? これで本当にゴドーを待っていると言えるのか?

 それでも、不確かな「その時」をただ待ち続けることしかできないのだとすれば、私たちの人生とはいったい何なのか?

 

 濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』において、最初に劇中劇として登場するのが、(チェーホフの『ワーニャおじさん』ではなく)この『ゴドーを待ちながら』である。概ね、上記のようなミニマリズムが二幕に渡って持続する。

 家福(西島秀俊)を相手にふわっとした感想を喋らせ、若き俳優・高槻(岡田将生)の文学的教養の程度を示唆するという演出意図を別とすれば、劇中で何か具体的な言及があるわけではない。映画に関するネット上の感想文もそこそこ検索し、ざっと目を通してみたが、そこでもそれほど多く言及されているわけではない。

 無視しようと思えば無視できるほどの細部、引用の断片に過ぎないのかもしれない。だが、芝居の断片だけでも十分に伝わるほど有名な作品のタイトルを、わざわざフライヤーを映り込ませてまでしてはっきりと分かるように演出したからには、何か映画の主題と関連していると考えるのが普通だろう。

 

 一応、ベーシックなところを先に確認しておこう。『ゴドーを待ちながら』は、訳者による巻末の解説文にもあるように、一般的には――確かに、口にするのも気恥ずかしいほど陳腐な解釈ではあるものの――ゴドーを「ゴッド(神)」のもじりと解釈して、「神の死のあとの時代に神もどきを待ち続ける現代人」をシニカルに描く寓意的な作品だと受け止められている。

 実際、彼らは間違いなく大いなる何かを待っているのだし、ある男の登場をゴドーの到着と勘違いした際には、「わたしたちは助かった!」と喜ぶ場面がある。なるほど、二人がゴドーに期待しているのは、「一つの希望」であり、「漠然とした嘆願」、すなわち何かしらの「救い」のようである。

 だが、いったい二人が何に苦しんでいるのか、その内容は最後まで明かされない。ただ、それはゴドーの到来をもってしか治癒できない苦しみなのである。傍から見れば、ゴドーを待つこと自体が二人の苦しみを増幅しているように思えてくるのだが。このように、本作はまず、到来し得ないことが自明な「救い」を待ち続ける不条理劇として存在している。

 

 しかし、改めてこうやって読み直してみると、そうした不条理に二人が没入しきった不条理劇そのものというよりも、そこから一歩か二歩程度、距離を置いた不条理劇のパロディのようにも思えるのである。

 観客に話しかけたりこそしないものの、一部の演出では劇中世界には存在していないはずの「実際のこの」劇場の幕や空間を使うなど、メタ的な視点が導入されているし、そもそもの話、二人はそれほど必死ではないように思える。

 ゴドーなんて本当はやってこないし、自分たちも本当はゴドーなど待ってはいないということを、二人は気付いているのではないか。というか、「待ち続けること」そのものが、彼らにとっては必要なのではないか。あらゆる人生の無意味さに耐えるために。

 つまり、「待つべきもの」がもう何もない時代に、「待つこと」そのものが自己目的的に必要な状態を、不条理劇の形式を借りて表現したパロディとしての演劇が本作である。その気になれば、演劇が終わったあとの演劇、と言うことだってできるだろう。そこでは、『ワーニャおじさん』などかび臭い古典に過ぎないのかもしれない。

 

 映画『ドライブ・マイ・カー』の話に戻るが、『ゴドー』を演出、自らも出演し、多言語による変奏を試みていた家福からすれば、演劇はすでに成熟期を過ぎた「壊すべきもの」だった――少なくとも彼にはそう見えていた――のかもしれない。多言語という自らの実験性は取り入れてはいたものの、『ワーニャおじさん』だって、あくまで職業的な技術によって演出すべき古典だったはずだ。

 だが、ワークショップのような形で演出することになった、彼からすれば教科書的な題材であったはずの『ワーニャおじさん』こそが、彼の人生を揺さぶるのである。彼は、自らの人生に到来した離別の予感を受け入れることができなかった。メタ不条理劇であったはずの『ゴドーを待ちながら』に対してベタに没入してしまう過ちみたいに、彼は妻の秘密なるものの解明を待つことになってしまうのである。

 

 待つことそのものが目的と化した世界では、人生の無意味さを取り払うための選択や決断に伴う責任を外部化しておけるし、期待を裏切られたり、傷つくこともない。それはある意味で村上春樹的な世界観だし、まさしく「ゴドー待ち」というほかない状態である。

 映画『ドライブ・マイ・カー』は、真面目に言えば、それを克服するための物語なのだ。一度は「ポスト演劇」のようなレベルにまで達していた家福という男が、チェーホフのベタな準古典演劇に人生を内側からえぐられるまでの、いわば人生と演劇の「定着」を描く物語だったと、今となっては思える。

 大丈夫。演劇は終わっていないし、物語も終わっていない。私たちの、このあてのない人生がみっともなく続いている限り、それは必要とされるのだ。永遠に、切実に。傷つくべき時に、「正しく傷つく」ことができるように。

 

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著者:サミュエル・ベケット
訳者:安堂信也、高橋康也
出版社:白水社白水Uブックス
初版刊行日:2013年6月25日

チェーホフ『ワーニャおじさん』書評|霞ゆく人生の蜃気楼

 近代戯曲とは言え、100年以上も残っているチェーホフの古典を素朴に読んで、素朴な感想をインターネットで書き記すことに、いかなる意味があろうとも思わない。すでに莫大な量の研究、評論が存在しているはずであり、書評と称するからには、まずはそれらの基本を押さえてから、というのが通常の前提条件になるだろう。

 実際、これを第二の原作として撮られた濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』では、俳優たちによって大いなる敬意とともに「本読み」されている作品でもあり、勝手な感情移入や分かったような自己表現は固く禁じられていた。あくまで、テキストに身を委ね、テキストの側から立ち上がってくるものを待つ。ステージは、そうした神聖なものの「再生」の舞台でもあった。

 

 だが、近代戯曲が100年残るとはどういうことなのかを考えると、それを可能にするのはこうした演劇的、文学的リスペクトや研究の蓄積だけではあるまい、とも思う。村上春樹じゃないが、まず第一に、「身銭を切って本を買ってくれる」普通の読者が100年間存在し続けた、ということだろう。評論家が100年間ほめ続けたところでこうはいかない。

 そう、文脈や時代背景など一切無視した手ぶらの読者が100年間、この作品の前で立ち止まり、勝手に感動したり怒ったりしながらまた通り過ぎていく。そういう事故みたいなことが100年間続いた結果のチェーホフだろう、と思うのだ。時間による洗練とは、まず何よりも、こうした前提を共有しない読者への開示と、何の忖度もない審判のことを言うのではないか。

 このような予防線を張り巡らせて、では、お前はどう読んだのか?と問われれば、自分にはミッドライフ・クライシスの話に思えた、と言ってしまうほかない。これは『ドライブ・マイ・カー』の原作『女のいない男たち』に収められた短編群を読んだ時の感想と全く同じである。原作を読んで、映画を観て、この「第二の原作」を読んで、また元の場所に戻ってきた感じだ。

 

 一応、説明しておこう。タイトルにもなっているワーニャは、47才。彼が暮らしているのは、今は亡き妹・ヴェーラが大学教授・セレブリャコーフと結婚するために父親が借金までして購入した土地であり、ワーニャは残った借金を返すために人生を捧げ、今日までの25年間、「牛のように」働いてきた。すべては、その土地を管理、運用し、ヴェーラが残していった姪・ソーニャを養い、セレブリャコーフを食わせてやるためだ。

 そのセレブリャコーフが、大学を定年退職し、27歳の後妻・エレーナを連れて帰郷することでこの田園生活劇は幕を開ける。

 結局のところ、何者にもなれないまま帰郷したセレブリャコーフの底を見たような気がして、ワーニャは絶望する。自分はこんな、「成功や名声や騒がれることが生き甲斐」な男のために自分の人生を捧げ、今日まで暮らしてきたのかと。妹がこの男に恋をしさえしなければ、「ショーペンハウエルにもドストエフスキーにもなれた」はずの自分が、わずかな月収と引き換えになんの変化もない田舎暮らしに甘んじている。

 しかも、悪魔的な美しさのエレーナに心を奪われ、彼女と十年前に出会っていたことを思い出しながら、自分と彼女との結婚が「十分すぎるほどに、ありえたことだったのに!」と悔やむ始末である。傍から見れば大笑い、だが本人からすればどこまでも本気の、人生の蜃気楼だ。

 あり得たかもしれないもう一つの人生は、確かにどこかにはあったのかもしれない。だが、ギリギリ引き返すことができた時はすでに過ぎ去った。それを受け入れることの恐ろしさ。もっとも、大騒ぎするほどのことでもない。それとて名もなき庶民の、数多く破り捨てられた夢の一つでしかないのだから。この落差において、悲劇というよりは喜劇にも思える、だからこその「田園生活劇」なのだと思った。

 

 訳者解説によれば、世間には本作を「のっけからアーストロフとエレーナのラブ・ロマンスとして演出」し、またそれを積極的に受容するという向きもあるようで、なるほど、個人的にはそんな読み方があるのかと仰け反ったくらいだが、エレーナは、ただ単に「実際にそのように美しいエレーナ」であると同時に、一人前の男になった証=トロフィーワイフという象徴的な存在でもあるのではないか。

 つまり自分には、ワーニャには全く反応のしない彼女が、ワーニャと同じくこの町唯一の「まともなインテリ」であったアーストロフに対して心を動かすのは、この男が、ソーニャが夢中になっている「実際にそのようにエレガントなアーストロフ」であるだけでなく、まさしくワーニャがエレーナに出会っていた時の年齢である37歳の男であることの反映でしかないように感じたのだ。

 やや図式的な整理になってしまうが、本作は、「自分だってこれくらいにはなれていたかもしれない男」としてのセレブリャコーフから、「自分にだってこれくらいの可能性が残っていたことを思い出させる男」としてのアーストロフが、象徴的なトロフィーとしてのエレーナをかすめ取っていく様子を、「人生を台無しにしてしまった男」としてのワーニャは指をくわえて見ていることしかできない、という、家父長になり損ねた男のドラマなのである。

 

 もっとも、エレーナは実際にはもっと複雑な人間であり、「考える」という最大の抵抗手段を放棄してしまっていることも含めて、家父長制の中に取り込まれている構造が存在している。そこはぜひ、訳者解説を参考にして欲しいが、アーストロフにしろ、ワーニャにしろ、日々の生活を乗り切るために酒の力に頼り、「月に一度くらい、徹底的に飲む」わけだが、その理由が、「せめて生きてるって感じがするから」というのは、なんという真実の言葉なのだろう。

 これは『桜の園』などにも並ぶ古典中の古典である、「真剣に」、「深く」読まなければ、という抑圧を鎮めつつ、かと言ってどこまで世俗的に読んでいいのだろうか、という迷いの中で、この言葉は人生の中から出てきた言葉だな、と思えた。「わたしらは皆、神様の居候ですもの」という乳母の悟ったような言葉も、ソーニャによる最後の場面のあの慰めの言葉も素晴らしいが、人生を受け入れていくためにはただ酒を飲み、蜃気楼の中を生きていくしかない、ということもまた文学なのではないか。

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著者:アントン・パヴロヴィチ・チェーホフ
訳者:小野理子
出版社:岩波書店岩波文庫
初版刊行日:2001年9月14日

 

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三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』映画評|誰に祝福されるでもなく生きる

(画像は公式Twitterから転載)

 

 きっとこれは繰り返されることになるのだろう、思わずそう確信する冒頭のショットにぼんやりと見入る。事実、夜の街灯に群がる白い蛾のような雪は、やがて閉鎖が決まったボクシングジムに溜まった埃となって再び宙を舞うだろう。

 あるいは、縄跳び、ウエイトトレーニング、コンビネーションミットなどによって生じる機械のように正確な反復音は、やがて電車が線路を走る際の走行音と共鳴し、映画全体の通奏低音として心地よいグルーブを生んでいくだろう。

 雪と埃。運動音と走行音。ツッタッ、ツッタッ、ガタン、ゴトン。本作『ケイコ 目を澄ませて』は、そうした分かる人にしか分からないほどの弱いつながりで結ばれたものたちが、誰に祝福されるわけでもなく、自らも知り得ないような類似性の中でただ離ればなれに存在していることについての映画である。

 

 では、先天的に耳が聞こえないボクサー=ケイコ(岸井ゆきの)が、誰に祝福されるでもなく存在し、闘うということはいったいどんなことなのか。

 彼女が抱える違和感。例えば、ホテルで働く客室清掃員でもある彼女に、周囲の人間がかける「試合楽しみにしてるね」「次の試合、楽しみだね」みたいな言葉。ここでの三宅監督なり、岸井は、分かりやすい戸惑いを描くことを控え、ケイコから特にリアクションらしいリアクションは返していない、ように見える。こういった時に流れる空白の時間、その「間」がうまいなと思う。

 なるほど、傍から見れば「障がい者がお情けで社会参加させてもらっている」ような構図に見えるのだろうか。だが彼女が立っているのは、相手を殺す気でやらなければ、勝つことはおろかリングに立つことさえ不可能な世界なのだ。「楽しい」わけがない。少なくともそれは、あなたたちの言う意味での「楽しみ」ではない。

 実際、プロデビュー2戦目となる試合で辛くも勝利するものの、激しい打ち合いとなったその試合で受けたダメージは彼女の闘志を奪ってしまう。少しずつ、身体を蝕んでいく病のように、それは彼女の心までをも包み込んでしまうのだ。なんだかすべてが夢だったかのように、その時の彼女にとってリングは途方もなく遠い場所に思える。わずか100分足らずのこの映画は、物語としては、そうした彼女の再起を描く作品である。

 

 契機となるのは、他のどのジムでも門前払いになっていた彼女をプロのリングにまで導いた会長(三浦友和)が、地域の再開発や自身の体調不良などを理由にジムの閉鎖を決断したことだ。

 この会長と、二人のトレーナーだけが知っている。ケイコがどれほど危険な場所で闘っているのかを。そして、彼女がどれほど勝利に飢えているのかを。それは実の母親ですら知らない、知ろうとすれば知れるかもしれないのにそれをしようとしない、ケイコの存在を証明する圧倒的な何かなのだ。

 だからこそ、彼女の中に「恐怖」の存在を認めるや否や、彼らは彼女をリングから遠ざけようとする。そうした状態で続けられる競技ではないのだ。母親は、ウンザリしたような顔で「そろそろいいんじゃない」と言う。「女にばかり教えているし、こんなジムでは強くなれないと思って」と言って辞めていく練習生さえいる。これが、ケイコが背負っている、誰に祝福されるでもない孤独な闘いである。

 

 これはもはや言うまでもないことだし、文字にしてしまえば途端に陳腐になってしまうのだが、誰に祝福されるでもなく、自らも知り得ないような類似性の中でただ離ればなれに存在しているもう一対の、そしてこの作品最大のペアは、ケイコと会長である。

 劇中、観客の疑問を代弁するような仕込みでやや興ざめではあるのだが、記者からの質問に答える形で、会長が「ケイコがボクシングに打ち込む理由」などを代弁する場面がある。もともと口下手な会長の饒舌さはいかにも間に合わせで、そこでのもっともらしい「ストーリー」は、会長が日頃、ケイコの練習量から感じていることとは乖離した見解であることは、誰の目にも明らかだ。また、ケイコ自身が職場の同僚に冗談めかして答える理由も、その場をはぐらかすための分かりやすいダミーでしかない。

 決してこういう形で言語化されるわけではないのだが、彼女の存在すべてを捧げて初めて、それに値する何かが返ってくるのがボクシングなのである。そんなものを簡単に言葉にできるわけがない。「愛」なんて生やさしいものですらないのだと思う。それが命を懸けた殴り合い――格闘技、と便宜的に呼ばれている――であり、命を懸ける値打ちのあるものであることを知る者同士として、ケイコと会長は誰に祝福されるでもなく、自らも知り得ないような類似性の中でただ離ればなれに存在しているのだ。

 

 そして、閉鎖されるジムへのはなむけとして、あるいは自身のプロボクサーとしての再起を賭けたであろう全身全霊のプロ3戦目で、彼女は敗北する。

 会長の妻は、彼女の敗戦を知るや否や、「あー、なんだかお腹すいちゃったね」と言って、さしたる興味もなさそうにタブレット端末の画面を切る。あまり細かいことを書いてもしょうがないが、彼女こそは、体調を崩して入院した会長にケイコのトレーニング日誌を読んで聞かせた張本人なのだが。この断絶。圧倒的な、断絶。

 『やくたたず』や『Playback』で将来を期待された三宅監督であればこの匙加減は当然かもしれないが、こうして淡々と描かれるリアリズムに美しささえ感じた。そこでのケイコは、まさに人知れず舞い続ける雪であり、埃である。彼女を温めるのは、いつものあの機械的な――彼女には振動として認知されているであろう――反復音だけだ。

 

 手話映画としては、ミロスラヴ・スラボシュピツキー監督の『ザ・トライブ』ほどの大胆さやある種の挑発は感じられなかったし、同居の弟(最初、関係性が明かされないまま登場するので面白い)の奏でるギターのフォーキーな音色が、この映画の実質的なサウンドトラックとなるのだが、ケイコには聞こえるはずもないその甘ったるい音楽で彼女の物語を一方的に装飾するのはややトゥーマッチに感じた。全体のバランスの中では許容されるべき範囲だとは思いつつ、いささかの妥協を感じたことだけは言及しておく。

 

 映画の最後、ケイコはどこかへ向かってまた駆け出していく。公式ホームページを見れば、「現実の」世界の恵子がその後、どこへ向かい、どのような物語を辿ったかはおおよそ察しが付く。その意味で、この映画が何を描き、何を描かなかったのかは、確かに重要だ。だが、16mmフィルムで撮られた映画をDVDで観ることの恥をさらしつつ、これからこの映画を観ようという人には、そのような「答え合わせ」は不要だとあらかじめ断言しておきたい。

 逆光気味の淡い夕暮れの中に消えていくケイコを見届ける誰もが、どんな形であれ、彼女の物語がそこで終わらなかったであろうことを確信するからだ。仮に、それが誰に祝福されるわけでもないのだとしたら、どうしてせめて、自分で自分の全うしつつある「生」を祝福することが許されないのか。音楽も途切れたエンドロールの深い余韻の上に、ただ全身を委ねればよい。「逆に勇気をもらえました」とか、そういう類の消費ではない。自分の生き方を自分で決めることの美しさに圧倒される。

 

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監督:三宅唱
劇場公開日:2022年12月16日