1000字書評ブログ “Trash and No Star”

字数制限1000字での書評ブログです。月に2度の更新が目標。文章練習のため、読んだ本はすべて書評します。

目取真俊『虹の鳥』書評|海を受け取ってしまったあとに(11)

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 冒頭、ひとりの少女が車に乗り込み、運転手の男に行き先を告げる。素っ気ないその口ぶりからは、恋人や友人といった関係を思わせるような親密さは微塵も感じられず、かと言って、タクシーの乗客と運転手の間に形成される束の間の連帯感さえ、ない。

 まだ17歳だというその少女は、30代半ばほどの別の男と公園前で落ち合うと、ほどなくその男の運転する車に乗り込む。最初の男は、いま落ち合ったばかりの二人が近くのホテルに移動することを念頭に、その一部始終を遠くからカメラに収めている。

 

 買春の斡旋と、証拠写真を使ってのユスリ。少女の素っ気なさは、このような方法で生計を立てる二人の関係性から来るものであったことが分かるが、また別の違和感がこびりつく。逆説的だが、それは細部にまで及ぶ暴力描写をめぐる違和感の「なさ」に他ならない。文章が、あまりにも静かすぎるのだ。

 その静けさが、二人の深い絶望によってもたらされていることを、読者は遠からず知ることになる。アパートで少女を軟禁した上での買春の斡旋という、支配・被支配の関係にある二人が、実は、より大きな支配構造の一部分にすぎないことが明らかになってくるからだ。二人の自由は、比嘉という男によって完全にロックされていた。

 

 押し寄せるむき出しの悪意。それ以上どこにも転嫁できない、暴力の最果て。ひと時も休まることのない緊張が読む者に迫ってくる。多くのシークエンスは眠りとともにカットされており、それ自体、二人の生きる現実が覚めない悪夢のようであることを演出するかのようだ。

 何か特別な落ち度があるわけじゃない。私たちは「ほんの一瞬の差」で、「元に戻ろうにも、もう戻る場所がない」ところまで押し流されてしまう。そうした悪夢のような現実が、光を失った者たちによってそれでもなお生きられようとするとき、『虹の鳥』は鈍い音を立てて軋む。あまりに痛ましく、読者にできることは何もない。

 

 やがて物語は、沖縄の現代史に残る95年10月の県民決起大会と交わりながら、しかしその高揚を遠ざけるようにして終わる。そこでは、85000人の怒りが捧げられることのなかった無名の少女たちの知られざる無念の上で、さらに弱き者が犠牲になるだろう。まさに「ほんの一瞬の差」で、その復讐は執行される。

 読後、ナイフで切り付けられたような感覚だけが残った。傑作と呼ぶことすらはばかられる、あまりにも鋭利な一冊。 

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著者:目取真俊
出版社:影書房
初版刊行日:2006年6月23日
新装版刊行日:2017年5月29日

真藤順丈『宝島』書評|THERE'S A RIOT GOIN' ON

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 戦後の沖縄が強いられた抵抗の歴史を、ひとつの大きな精神史として語りなおすこと。戦後から施政権返還までの沖縄で経験された実際の歴史を、あえて偽物の歴史として語りなおすこと。本作で直木賞作家となった著者が、どのような思いでこの541ページに及ぶ大作を書き上げたのかは、定かでない。とにかく、読者がまず受け取るのはその熱量だ。

 「戦果」という言葉がある。「軍作業の際などに米軍物資を盗み取った行為」であり、台湾などからの密貿易と並び、「終戦直後の混乱を象徴するものであった」と、櫻澤誠は『沖縄現代史』に書いている。岸政彦の聞き取り調査においてこの違法行為は、生き延びるために必要なことであり、「当時の沖縄の人びとで、それが「悪いこと」だと思うひとはほとんどいなかったと語られた」という(『はじめての沖縄』)。

 

 たしかに、本書で再現される暴力と圧政の前で、人はあまりにも無力だ。とは言え、そこで戦果を挙げた人々を、「戦果アギヤー」としてヒロイックに描く真っ直ぐさにどこまで乗っていいものか、迷いながら読んだ自分もいた。

 少なくとも本書は、「支配層への復讐」を叶える寓話として、つまりは「富める者から盗み、貧しきものに与える」というアウトローの神話として「も」書かれている。言い換えれば、この物語は、ある種の自力救済を行使していた「たくましい沖縄」の理想化と、それゆえのノスタルジーに囲まれた場所から、語られているのである。

 

 もちろん、そこに滞留ばかりがあるわけではない。そのことは、戦果アギヤーのカリスマが、恋人や弟、親友を残したまま早々に行方不明となることからも読み取れる。あくまで象徴としての戦果アギヤーであり、残された者たちが歩むのは、英雄を待つことを止め、それぞれがそれぞれの抵抗を選び、実践するまでの道のりでもあるのだから。

 「しかし」なのか、「だからこそ」なのか、クライマックスに設定されたコザ暴動の先で、ひとつの精神史を受け取った重みを感じる一方、カウンター・カルチャーへの文化主義的なロマンが、沖縄の抵抗史を介して露呈しているようにも読めてしまい、繰り返しになるが、どこまで素直に乗っていいかは分からなかった。ヒロインであるヤマコの恣意的な理想化にも思うところはある。

 

 しかし、それでもなお、ここに込められた熱量は圧巻というほかない。まずもって、書かれたことそのものに敬意を表すべき一冊だ。  

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著者:真藤順丈
出版社:講談社
初版刊行日:2018年6月19日

桐野夏生『メタボラ』書評|はなればなれに

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 二人の男が出会い、別れるまでの刹那。本書は、少なくともその意味において青春小説と呼ぶことができるだろう。一人は記憶喪失、もう一人は家出という、小説的としか言いようのない状態で闇夜を逃げ惑う二人が、沖縄北部、やんばると呼ばれる山奥で事故のように出会う。

 家出の男は、記憶喪失の男に仮の名=ギンジを与え、自らも本名とは別にジェイクを名乗る。暗示的なダチョウに混乱しながらも、ひとまず読者は、『メタボラ』が逃走劇なのだということを知る。そして、やっとの思いでたどり着いたコンビニで女が一人、約束されたかのように合流し、若者たちは白い軽自動車へと乗り込むのだった。

 

 ギンジにとっては自分探しの、ジェイクにとっては自分無くしの旅へ。これは約束の地を持たぬ者たちの、終わらない放浪についての物語だ。ギンジは、ボブ・ディランさながらに、「転がる石のように生きていくつもりだ」と心に誓う。

 だが、彼らを取り巻くのは、貧困のショーケースとでも呼ぶべき過酷な環境だ。下流社会、ホスト、DV、ワーキング・プア、バックパッカー、フリーター。帯には、このような言葉がぎっしりと並んでいる。押し流され、沈んでいく若者たちに、選択肢は無い。 

 そこには、「構造上の問題」がある。しかし、敵が構造であるならば、いったい彼らは誰と戦えばいいのだろう。その視界の悪さこそがまさに「構造的な」問題であるはずだが、本作が文学的に誠実なのは、こうした社会的な問題を著者が論じるのではなく、あくまでもギンジや、ジェイクたちの視点に留まり続けることだろうか。

 

 特徴的なのは、宮古島出身のジェイクや、本土からの移住組(ギンジも本土出身である)など、登場人物がよそ者ばかりなことだ。逆に言えば、那覇でしくじるとあとはもう「飛ぶ」しかない、そういう追い詰められた者たちの群像劇でもある。

 那覇は漠然とした都会として描かれ、いかにも桐野作品らしく、人々はそこで常に探り合い、騙し合っている。まるでラース・フォン・トリアーの映画みたいだなと、思う。露悪的で、ひたすら痛ましい。 

 

 やがて皆、離ればなれになっていく。それぞれが、それぞれの速度で、人生のポイント・オブ・ノー・リターンを通過していく。こんな時、せめて愛する人の手を握ることができたらと、小さく祈りながら。だが、若者たちの行き違いは虚しく加速していくばかりだ。夢から覚めていくようなラストが美しい。 

 

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著者:桐野夏生
出版社:朝日新聞社
初版刊行日:2007年5月30日