Trash and No Star

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ジョージ・ミラー監督『マッドマックス:フュリオサ』映画評|愛、逃走、あるいは映画の敗北について


(画像は公式サイトから)

 

 もちろん、それほど悪い映画ではない。

 あの『怒りのデス・ロード』において神話的クーデターを成し遂げた女性兵士・フュリオサが、そもそもなぜ、水と緑にあふれた生まれ故郷を離れ、イモータン・ジョーが支配する独裁国家の軍幹部となったのかが幼少期から順に時系列で描かれるわけだから、少なくとも前作のファンにとっては、あの大胆な省略が施された舞台設定を理解する上では必見だろうし、前作と同じくらい激しいアクションの中で多くの爆薬が惜しげもなく使われており、一見したところでは、「相変わらずやってるなあ」というか、やはり何らかの意味で「過剰な」映画であるとは言えるだろう。

 しかも、「荒野の中での往復運動」という『マッドマックス』的主題は本作でも繰り返されており、大砂塵の中でとめどなく演じられる逃走劇と追跡劇は血と油にまみれ、核戦争後の荒廃した世界をさらに醜いものへと変えていくだろう。そこでは、愛と復讐が激しくせめぎあっており、それが逃走と闘争を演じながら絶えず繰り返されていくわけだが、『マッドマックス』的倫理においては、常に愛と逃走の側が敗北するほかなく、愛する者を失った人々は、復讐のための闘争に命を捧げ、山となった屍の上に自らの死さえもただ空しく重ねていくしかない。

 

 『マッドマックス』的世界が陥っている(らしい)狂気の実相を描くという意味であれば、なるほど、人々は世界が滅んだあとにもこのように憎しみ合い、殺し合っているのだと納得するだけの映像化がなされていると、まずはその律儀さを評価することはできるだろう。

 だが、この律儀さというのが厄介なのだ。それは本来、映画にとっては無用とも言える義務的な志向、性質だからである。実際、すでに多くの人が落胆を隠しつつも控えめに指摘しているように、ここには『怒りのデス・ロード』ほどの驚きやエネルギーはない。

 すでに前作のレビューでも述べたが、もし、『怒りのデス・ロード』が2010年代の神話たりえていたとすれば、それは「意味」に「テンポ」が勝り、「物語」に「形式」が勝る過剰なまでの単純さを、上映時間2時間という制約の中に無理矢理押し込んだからこそ、「結果として」成立したものだったのであり、同じカラクリを二度は使えない、そういう手品のような代物だった。

 

 そうした観点からすれば、本作『フュリオサ』に何かが「足りない」わけでは決してない。むしろ、ここには「すべてが律儀に満ちたり過ぎている」のである。

 人は、ある完成された物語を、誰がどのような思いで行動しているのか、状況的に理解可能なショットの合理的な配列によって映像化してもらいたいわけではない。何を語るでもなく、映画は時に「ただ映画であるだけで」神話たりえてしまうことを、人は他ならぬ『怒りのデス・ロード』によって教わり、また思い出しもしたからだ。

 だが、残念ながらここでの映画は、そんな神話のような話を信じてなどいない。『フュリオサ』にはあくまで映画を「物語」に還元させる力が終始働いており、ジョージ・ミラーは義務的な律儀さで物語を語ろうとし、あまつさえ神話を語ろうとしてしまう。

 

 言うまでもなく、神話的な映画を狙って撮ろうとすること自体、最初から不可能である。

 事実、定点撮影の早送りや、並行するショットのオーバーラップという、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の監督ならやるかも知れないが、誰も『マッドマックス』には求めていないであろう紋切り型の演出でいくら「時間の経過」を律義に表現したところで、映画はただ停滞するばかりだ。

 結果、前作よりも30分ほど長い上映時間を費やしながら、全体としてはよくある「復讐劇」という、使い古された説話構造の中にすべてが収まってしまっている。さらに言えば、誰もそのことに苛立とうとすらしていないことが、さらなる悲しみを誘うだろう。

 

 復讐に燃え、親の仇でもあり疑似的な「父」でもある男を追って荒野の果てにたどり着いたフュリオサが直面するのは、「俺もお前も結局は同類なのであり、俺をぶちのめしたところでお前の復讐は完成しない」という、あの懐かしい『ダークナイト』的葛藤に過ぎないのだ。

 前作とは対照的に、「テンポ」に「意味」が勝り、「形式」に「物語」が勝ってしまっている。それを「映画」の敗北と呼ばずになんと呼ぶのか、残念ながら私は知らない。

 

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 5月31日に封切られたばかりの映画について、「ネタバレ」にならない範囲で言えることはほぼ以上で尽きている。とはいえ、これで終わってはさすがにあんまりなので、以下、さらに具体的な内容にも触れつつ、映画を観ながら連想したことを思いつくままに書き残していこう。

 

 まず、上映中に私がもっとも思い出したのは、意外にもクエンティン・タランティーノだった。荒野を暴力的に疾走する自動車の追跡劇。あるいは、追う者と追われる者が入れ替わり、最後には「私のターン」でクライマックスを迎える起死回生の逆転劇は、安易な連想とは思いつつ『デス・プルーフ in グラインドハウス』を思い出させた。

 だが、それが『ダークナイト』的葛藤でスタックしてしまうのはいかにも興ざめだし、追う者と追われる者との優位性を決するものが、結局はエンジンの強さとガソリンの物量でしかないのは、最終戦争後の世界とはいえ、身も蓋もないというか、あまりにも映画的配慮を欠いていると言わざるを得ないだろう。

 実際、そのような状態でいくら改造車や改造バイクが不吉な轟音を響かせながら荒野を疾走しようとも、いくら砂漠のロケーションを前作以上に壮大にしようとも、それらはエンジン性能から算出可能な「時間」や「距離」に還元されるしかない。

 ヒーローなどいない。最強の武器も車もない。あるのはただ、生存のための絶え間ない決断だけだ、というテンポで走り切った前作とは対照的である。

 

 また、タランティーノということで言えば、2部作により構成され、『1』と『2』で時系列を一部入れ替えながら物語の全貌を少しずつ明らかにしていく点を素朴に捉えれば、『キル・ビル』を思い出したこともそれほど不自然ではないだろうか。

 事実、本作も『キル・ビル』と同じく「愛と復讐」を主題としており、蓮實重彦の指摘した「引きのばされた死」が『キル・ビル』の通奏低音であったとするならば、『怒りのデス・ロード』におけるマックスに、解放はおろか死ぬことさえも瞬時には許されていなかったことも説明がつく。

 

 とはいえ、本作はいかなる意味でも『キル・ビル』ほど複雑な復讐劇を形成しているわけではない。それでも、すべてをなげうった女と男が車に乗り込み、世界の果てを目指すために最後の賭けに出る一連のシークエンスは、唐突なロマンスの予感とともにこの『フュリオサ』という映画を束の間ではあるが活気づけるだろう。

 運転席と助手席に並んだ二人が正面を向きながら疾走するショットは、ハリウッド映画の亡霊が砂漠を彷徨うようでややアンバランスだが、それまで自らの性別を呪い、軍隊の中でそれをひた隠しにしてきたフュリオサの女性性、そうでなければ彼女の「愛」が、あるアクシデントによってウォー・タンクで不意に発露して以来、絶体絶命のピンチで背後に迫る敵の火炎放射によって最高潮に達するという視覚的な演出は、愛の言葉を交わすことすら許されなかった荒野の戦士たちに相応しい美しさで、フュリオサの愛をたたえている。

 

 これ以上、詳しいことを今は語るまい。それでも未練がましく、最後に一つだけ言い残すのであれば、この2時間30分に及ぶ「前日譚」が撮られたことの貴重さよりも、これを省略したまま『怒りのデス・ロード』が成り立っていた事実、むしろこれを省略「したからこそ」あの神話が成り立ちえたのだという逆説の強固さを、それでも指摘しないわけにはいかないだろう。人は『フュリオサ』を観ずして、すでにこの映画を観ていたのである。

 

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監督:ジョージ・ミラー
劇場公開日:2024年5月31日

 

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蓮實重彦『映画の神話学』書評|映画とは、いわば不自由の同義語である

 つまりは、こういうことだ。映画とは、小説や脚本を映像化しただけの「動く物語」などでは断じてなく、だから「ネタ」をばらす/ばらさないといったレベルで議論しうるものであるはずもなく、ただひたすらに「運動」であると。

 では、この場合の「運動」とは何か。それは、カメラや被写体の動きが醸し出す「躍動感」などでは断じてなく、あくまで「変化への可能性」であり、「変容への契機」なのだと。

 すなわち、「映画を観ること」とは、それ自体が自らの予期せぬ変容を準備する「事件」たらざるを得ず、既存の学問体系や批評理論という「制度」の中で読解されうる「作品」などではないのである。

 

 そう、蓮實重彦が論ずる「映画批評」とは、だから辞書的な意味での「批評」というよりももっと根源的な「体験」を生きるものなのであり、著者は表紙やあとがきを使って、この本が書物としてただ「読まれてしまう」ことへの苛立ちを隠さない。

 それを読解しきれない自分の凡庸さを呪いながら、せめてもの皮肉を込めて「美しい悪文」と呼んでみるほかない、あまりにも蓮實重彦的な文章が終始炸裂しているわけだが、客観的に言って、理解不能な人にとってはどこまで行っても理解不能な文章の羅列だとは思う。

 それでも、もしあなたが映画を愛しているというのなら、試しに本書収録の「自動車の神話学」だけでも読んでみるとよい。以下、かなりおぼつかない文章になることは覚悟のうえで、少し解説してみよう。

 

 これは異論のないものと思うが、自動車は普通、「疾走」を意味する記号であろう。少なくともこの日常生活というレベルにおいてのそれは、目的地への到達を目指す現代的な「移動」装置である。

 しかし、蓮實重彦的な映画批評における自動車とは、むしろ「停止」のための装置に他ならないのだ。いつだって、停止こそが、新たな邂逅や事件を準備する。むしろ多くの場合、停止そのものが、すでに何かしらの事件を構成しているのである。

 とすれば、もはや自動車の移動や疾走とは、来るべき「停止」を迎えるまでの頼りない宙づりの状態でしかない。そこでは、停止こそを映画的な意味での「運動」と捉える、全く新しい磁場がいつの間にか生成されていることになるだろう。

 ある「記号」をめぐって、その記号が通常「意味されるもの」を自ら超えていくこと。辞書的な記号を、映画的な記号が塗り替えていくこと。あるいはこれこそが「運動」である。それは物語を「深く」解釈することとは何の関係もない。

 

 こうした「記号」の逆転劇を読んで、ああそれなら言われるまでもなく検討済みである、という人に蓮實の本は不要である。が、なるほどそんな観方もあるのだなと少しでも思った人がいたとしたら、あなたは蓮實の映画批評を一つの「体験」として読まなければならない。

 その際、これまで観てきた作品数(蓮實的に言うなら「フィルム断片」数)が500本だろうと1000本だろうと関係ない。「自分は、本当は映画というものを一度も観たことがないのではないか」というレベルで認識構造が根本から瓦解してしまいかねない、「変容への契機」があなたを待ち構えているだろう。

 

 もっとも、2024年にもなって、このようなかつての「ベタな」読み方を「まともに」試みること自体、あまりにも前時代的(もしくは神話的)という嘲笑を免れないだろう。

 実際、「映画を早送りで観る人たち」が同時代に(少なくとも、一般新書の言及対象になるくらいには)登場しているという今、蓮實重彦を読んで映画の観方を変えようという人などどこにもいまい。所詮、映画など「ネタバレ」をされたら観る価値もないビックリ箱に過ぎず、ショッピングモールの一角を無難に埋める平和なアトラクションでしかないのだ。

 

 そんな空しい2024年に、今さらこんな表紙の破けた古本を引っ張り出しているのは、直接的には千葉雅也の快作『センスの哲学』からの流れである。

 全体の構成の観点から、先日投稿したレビューには書かなかったのだが、同書における蓮實重彦(的映画批評)の解説が、もうこれ以上分解できないというレベルでその功罪を徹底的に分解していたので、まったくの初心者だという人は、まずは『センスの哲学』を通読する方を優先してもらいたい。

 ここでは差し当たり、蓮實本を読んでいく上での最低限の手がかりになる部分に絞ってそのまま引用するが、「いかにもつまらない部分的な形に注目することで権威的な意味づけをちゃぶ台返しする」というツッパリ、反抗、いわば「下からのマウンティング」みたいなものが、蓮實的映画批評の原理である。

 理想を言えば、「説話」、「運動」、「記号」などといった蓮實的言い回しに慣れる必要もあるが、そこまでの余裕はどうやらない。どうしても先を急ぎたいという人は、この「細部からのマウンティング」みたいな感覚がつかめているだけでも理解度はかなり変わってくるかと思うので、あえて強調しておく。

 

 さて、だいぶ回り道が長くなってしまったが、そろそろこの『映画の神話学』なる書物を紹介しよう。初版は1979年で、自分が知る限り、これが著者にとって初めてとなる映画方面での単著である。

 ざっと数えて300ほどの作品に言及する具体性に満ちた内容ではあるわけだが、読んでいると不思議な無重力状態に陥るというか、全体として、ある特定の目標地点に向かって収れんしていくタイプの作品論や作家論ではない。むしろ、ある自走的な「運動」に身を委ねるようにして進んでいく疾走であり、またおそらくは迂回でもあって、映画について、「映画を撮ること以外の方法で何を語り得るか」を考え続ける、文字通りの「映画論」と言える。

 もっと時代が下ってからの、例えば『映画時評』シリーズなどの方が「作品」単位での批評をしているので、まったくの初心者だという人はそちらから入った方が受け止めも容易ではあろう。だがやはり、このデビュー作にこそ、蓮實的な映画批評(千葉もそれなりに参照したであろう、浅田彰が評した言葉でいえば、「限りなく映画に近づこうとして身をもがく言葉たち」)のえぐみが表出していると思うのだ。

 

 とまあ、散々煽った挙句にこれではなんの進歩もない表現になってしまうが、なんといっても、ここにあるのは「反物語」の姿勢である。

 10年後には誰も読んでいないようなベストセラー小説を原作に持つ映画があまりにも氾濫している状況では、映画を「動く物語」と理解し、ストーリーや登場人物の行動に共感した/できなかったというレベルで接するのが当たり前になってしまっているのかもしれないが、そうではないのだ。

 あるいは、ちょっと高度な、知的な文体で書かれた「この映画は現代においてどういう意味を持つか」という類の、物語の同時代的な「解読」に励む人も多いだろうが、やはりそうではないのだ。

 

 そう、「こうした思考が『映画』に期待しているのは、動く『物語』の絵というものにすぎない」と著者は言う。

 本書がそうした映画の消費環境への解毒剤たりえるとすれば、千葉の言うとおり、「細部」への執着(浅田の言い方では「ディテールへの過剰ともいうべき関心」)があるからであり、人はここで、「画面に映っているものをただ映っているとおりに見る」という行為が存在することを知るだろう。「それ以前」には映画を観るという行為自体、存在し得ないのだ。

 もし、物語の筋やそれらが反映する価値体系のみに映画を還元し、評する言説があるとすれば、それは「映画を観ずとも語れる」ようなものというか、映画とは関係のない場所で蓄積された思考の反復的実践でしかないだろう。

 もっと「それ以前」へ。もっと「形式」へ。もっと「表層」へ。著者はその一つの極限として、映画なるものが、「横長の長方形の形でスクリーンに投影されること」の宿命的な事実性についてさえ論じている。映画とは、よく知られたように、最終的には「光」であることを、私たちはあまりにもあっけなく忘れてしまうのだ。

 

 表層に留まり続けることこそが、むしろ一番の冒険なのだという逆説。そうやって本書は、制度化された「映画の考察」のようなもののはるか彼方に読者を連れていく。いま、時代が何周目なのかはわからないが、今回改めて読み直してみて、実はもう一度「あり」なタイミングに来ているのではないかと思った。

 

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著者:蓮實重彦
出版社:泰流社
初版刊行日:1979年1月15日