1000字書評ブログ “Trash and No Star”

字数制限1000字での書評ブログです。月に2度の更新が目標。テーマによっては、音楽や映画も扱います。

リー・ダニエルズ監督『大統領の執事の涙』映画評|公民権運動とファミリー・メロドラマ

 案外、取り扱いに悩む作品である。

 ゲットーの片隅で暴力に怯えながら暮らす少女が、自らの人生を選択し直す過程を描いた『プレシャス』が、徹底的に個人的な(むろん、だからこそ社会的な)映画だったのに対し、本作はまず歴史という大きな枠組みが先にあって、その中で個人を再編集している、という感じがする。

 もっとも、主に三つの視点からの長い歴史を132分でまとめ上げたという点は、本作が守った映画的倫理と言うべきものだろう。このまとまりの良さを責めるべきでは、きっとないのだ。

 

 最初の視点は、1926年、人種差別の牙城とも言うべきジョージア州メーコンのプランテーションで始まる。

 本当に奴隷制度廃止後のアメリカなのか、南部の典型的風景が画面いっぱいに広がる中、農場主に母親をレイプされ、父親を銃殺された少年・セシルは、農場主の家族からの情けで「ハウス・スレイブ」としての教育を受けるが、やがて農園を脱走(ちょうど北部への大移動の時代だった)。運よく1957年のワシントンD.C.でホテルマンとして出世するが、さらにはその「非政治性」を買われ、ホワイトハウスの執事にスカウト。そのままアイゼンハワーからレーガンまでに仕えることとなる。

 

 残る二つの視点は、セシルの長男・ルイスが歩む活動家としての道であり、もうひとつが、セシルが仕えた歴代大統領から見たアメリカ政治史である。愚直なオーバーラップを多用しながら、これらが少しずつ交わり合っていく。

 「今日も、明日も人種分離はつづく。それは永遠に変わらない*1」と言ってのけた州知事が、たった9人の黒人学生が登校しようとするのを軍隊を投入して阻止したリトルロック・セントラル高校の問題に始まり、人種分離された飲食店での「シット・イン」や、クー・クラックス・クランによってバスが燃やされたことでも知られる「フリーダム・ライド」などにルイスが参加することで、物語はうねり始める。

 

 白人に認めてもらえるよう、勤勉でいくか。それとも、社会に働きかけ、少しずつ改良していくか。あるいは、力づくでも一気に変えるのか。

 アメリカ黒人を分断してきた問いが、ここでも繰り返されているけれども、セシルが(少なくともある瞬間までは)ホワイトハウスで働いていることを誇りに思っていることは誰にも否定できないし、結果として否定するにしても、それを「和解」として肯定的に描いた本作はうまいなと思う。

 

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監督:リー・ダニエルズ
原題:The Butler
劇場公開日:2013年8月16日

 

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*1:パップ・ンディアイ『アメリカ黒人の歴史』p.90

安堂ホセ『ジャクソンひとり』書評|日本の「ダイバーシティ」を撹乱する知恵とユーモア

 まずは書き出しの一文だ。黒人に対する差別意識の表象とも言える、身体性ばかりが強調された動物の比喩や人種的なステレオタイプ*1に満ちた表現――「ココアを混ぜたような肌」「悪魔じみた目」「黒豹みたいな手足」――が著者の側から連打される。

 これがパロディなのか、もっとポジティブな言葉選びなのか、判断がつかないまま読み進めると、その身体が性的な目的でベッドにはりつけにされているのだから事態は混沌としている。同時に、本作をめぐるインターセクショナリティをここで一瞬で説明してしまうスピード感はめまいがするほどだ。

 

 そう、本作の主役となるジャクソンは、日本に住む黒人系ミックスレイスの青年で、ゲイだ。作中の言葉を借りるなら「珍しい」存在だろう。表題にもあるとおり、この外見でこんなふうにはりつけにされ得るのは「ジャクソンひとり」だと彼自身も思った。

 しかし、ジャクソンに当時の記憶はなく、これは自分だと主張する「ジャクソン」がほかに3人現れる。動画を撮影したのは誰なのか。被写体は誰なのか。夜に紛れて生きる彼らの都市生活は、この動画をめぐって加速していく。

 

 そのスピード感を切断するのは、警察による職質だ。「普通に道を歩いているだけで職務質問を受けるのは、『黒人系』や『中東系』、『南・東南アジア系』のルーツをの男性が多い*2」というのは現実と同じなようだ。

 こうした名ばかりの「ダイバーシティ」を暴露するように、物語の終盤である男はこう言う。「君たちみたいな属性なら誰でもいいんだよ」と。まさしくレイシャル・プロファイリングの原理だが、「ステレオタイプは、見慣れぬものを固定させ、そうして『抑制』する*3」とは、まさにそのとおりだろう。

 

 そこで4人の「ジャクソンたち」は、一方では「特殊」と見なされ周辺化されながら、もう一方では雑な括りで「一緒くた」にもされる落差を逆手に取り、「俺たちも、入れ替わっちゃう~?」と思い切った反撃に出る。

 復讐の顛末はここでは明かさないが、「純ジャパ」からの二重の視線を対象化した上で取り込み、物語のテコとしていくタフな作品である。ここにあるのは知恵とユーモアだ。ジャストアイデアな軽さも手伝い、多くの読者に、素朴に「面白い」と言わせてしまうだろう。

 

 だが、この「面白さ」は、彼らの根っこにある悲しみや怒りとバーターだ。どれほどサクサク読もうと、そのシリアスさを軽く見るべきではない。

 

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著者:安堂ホセ
出版社:河出書房新社
初版刊行日:2022年11月30日

*1:マイク・モラスキー『新版 占領の記憶 記憶の占領』p.147

*2:下地ローレンス吉孝『「ハーフ」ってなんだろう?』p.68

*3:マイク・モラスキー『新版 占領の記憶 記憶の占領』p.156

スパイク・リー監督『ゲット・オン・ザ・バス』映画評|それでもバスは進む

 スパイク・リーが『ゲット・オン・ザ・バス』というタイトルの映画を撮っているのなら、それは間違いなく1960年代の「自由のための乗車運動」が題材に決まっていると思い込んでいたのだが、違った。

 本作でバスに乗った男たちが目指しているのは、1995年のワシントンD.C.である。そこでは、「黒人男性に過去の罪滅ぼしをし、その家族とコミュニティーに対する責任を果たすよう求め*1」るための100万人集会が開催されようとしていた。ここでの責任とは、「妻子を養うこと」である。

 

 この時代、黒人内部の階層分化は激しく進行していた。逆に言えば、妻子を養うことができるか、それを可能にするだけの賃金を得られるかどうかは、黒人だからと言って当然に共有できる問題ではすでになくなっていたのである。

 そんな時代に、ただ「男であること」だけで連帯することなどできるのだろうか。答えはノーだ。事実、60万人以上を集めたというこの集会にしても、その提案者であるルイス・ファラカンにしても、歴史的な評価は必ずしも高くない。当然、男性だけの集会であることに対する黒人女性からの批判も覚悟しなければならない。

 結果、本作が描くのは、現代のアメリカ黒人が直面する「連帯の難しさ」となる。

 

 恋人の妊娠を知って逃げ出した父親と、その息子。リストラで妻子を失った父親。事業の成功を鼻にかけ、Nワードを使いながら同胞差別を行う自動車販売業の男。黒人ギャングに父親を殺された警察官と、ネーション・オブ・イスラムへの入信により改心した元ギャングスタ―。白人の母親を持つことで、「ブラザー」たちからハウス・スレイブ呼ばわりされ、「上方に疎外」されてしまう男。そしてゲイのカップルと、同性愛嫌悪をむき出しにする俳優。あるいは、大学の卒業制作の撮影のためにカメラを回す男。

 

 これで連帯などできるはずもなく、まさに決裂寸前の口論映画となる。だが重要なのは、彼らの乗るバスが、「それでも」男たちを同じ空間にまとめ、仮初めの共同体を辛うじて形成する点だろう。

 バスの役割を担うのは、時に「祈り」や「音楽」だったりもするし、状況の改善には「意識の向上」が必要である、とまとめてしまうのはいかにも説教じみていて固いけれども、同じバスに乗り、同じ方向を向いて、同じリズムを刻めば、俺たちもまだ完全にはバラバラではないのだと、ギリギリのところで描きたかったのではないか。

 

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監督:スパイク・リー
原題:Get on the Bus
劇場公開日:1996年10月16日

 

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*1:上杉忍『アメリカ黒人の歴史』p.170

吉本ばなな『ミトンとふびん』書評|人生には「もうここにはないもの」がたくさんある

 見え透いた悪意の塊のようだったポン・ジュノ監督の映画『パラサイト 半地下の家族』の中でもひと際冷笑的で、露悪的だったシーンと言えば、妻を愛しているかと訊かれたIT社長の男が、半地下暮らしの男が運転する高級車の後部座席で浮かべた醜い微笑だろう。

 典型的なトロフィーワイフとして描かれる妻(公式サイトには「美しく、純真、若くて“シンプル”」とある)にトロフィー以上の価値はないことを暗に認めつつ、ではお前らが信じているその「愛」とやらはどこにあるのだと問うようなあの微笑は、なんともイヤな感じだった。

 

 吉本ばななの短編集『ミトンとふびん』は、あの微笑が代表するタイプの価値観に対するささやかな逆襲みたいな作品である。

 一編の長さはまちまちだが、ここでは皆、何かしらの喪失を抱えている。そして、それはもう起きてしまったことばかりだ。今さら、その喪失自体はどうすることもできない。そういう物語が6つ並んでいる。

 おそらくは意図的なのだろう。本作には、「喪失と再生」みたいなきちんとした言葉では収まりきらない、人間の適当さや曖昧さが溢れている。著者がここで描いているのは、何かを要約するような言葉を使ってしまっては、たちまち消えてしまうようなものだ。

 だから、この本に書かれている言葉は、この長さでなければならなかったし、このサイズと装丁でパッケージされなければならなかったのだと思う。それを他の何かで代用することはできない。その意味で、例えば「愛」という言葉すら、本作の望むものではないだろう。

 それでも、ここには確かに愛がある。あるいは、ここでの喪失とは、愛と呼ばれるものがかつて自分の近くに確かに存在したことの「記憶」なのだろう。だから、それは乗り越えるものでも、埋め合わせるものでもない。そういったドラマティックな行いに対する抗いのようなものが、ここにはある。

 

 『ミトンとふびん』は、そんな風にして、ドラマティックなものに対する冷笑とも、ドラマティックなものから来る過剰さとも距離を置いた場所で、穏やかに書かれている。

 だからと言って、ここに痛みがないことにはならない。時には、誰かの肩を借りたりもするだろう。ただ、かつてここにあった愛がそうだったように、その誰かがその誰かであるための必然性を誰かに承認してもらう必要はない。それを忘れないでいるための自分だけの方法が見つかれば、それでもう大丈夫だ。

 

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著者:吉本ばなな
出版社:新潮社
初版刊行日:2021年12月20日