Trash and No Star

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スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』書評|すべてを昔のままに戻してみせるさ

 久しぶりに全体を読み返し、そうだ、『グレート・ギャツビー』は確かにこんな話だったとクリアに思いだした。同時に、いずれまた細かい筋書きはすっかり忘れてしまうだろう、と思わずにはいられなかった。これ自体、ひとつの幻についての回想録であり、ひとつの夢を見るような読書体験でもあるからだ。

 それはきっと、訳者の腕前によるところも大きいのだと思う。ひとりの翻訳家として、「『グレート・ギャツビー』という小説を翻訳することを最終的な目標」にしてきたという訳者が「全力を尽くした」というだけあって、全体がエーテルに包まれたような、ある夏の断片が真空パックされたような甘美さに満ちているのだ。

 それは片時も途切れることがなく持続し、深い余韻を残しながら見事に消えていく。あとには何も残らない。美しく、どこまでも空しい傑作だ。

 

 この超有名作について、何をどこまで書いてしまうことが「ネタバレ」になるのかいまひとつ分からないが、ごくあっさりと言うなら、本作はジェイ・ギャツビーという男が、失われた夢の続きを生きようとする話である。より直接的に言えば、失われた愛をもう一度生きようとする話だ。

 ギャツビーは疑うことなくこう考えていた。自分は特別な資質を備えた人間なのであり、本来であれば、人生のスタート地点からそれに相応しい環境に囲まれているべき存在なのであって、もし仮にそうでなかったとしたら、それは環境の方が間違っている。すべての物事は、本来あるべき形へと「矯正」されなければならない。

 「本来こうあるべきであった」本当の自分へ。完全無欠の、「真の」自分へ。この現実は借り物であり、自分にはこれではない人生が「本当は」あったのであり、僕はそんな自分にこそ相応しい、ただ一人のロマンティック・ガールと約束された愛を分かち合うべきなのだ。ゆっくりと、まさしく一生をかけて。

 

 その妄想じみた確信は、「いかにも十七歳の少年が造り上げそうな代物」かもしれない。しかし、それが彼にとっての唯一の夢であり、緑色の灯火であった。それだけが、ギャツビーという男の人生を突き動かしてきた。それは驚くほどの純粋さであり、同時に手が付けられないほどの狂気でもある。

 もちろん、同時期の短編を通じて確認してきたように、その試みは全くもってうまくいかないのだが。むしろ、過去を取り戻そうとすることでより多くのものを失ってしまうというフィッツジェラルド的命題が、ここでも抜かりなく、沈痛に、また執拗に、息を呑むほど美しく繰り返されているのだ。

 人生は後戻りしない。約束された愛の中に自分が含まれていなくとも、二度と戻ることのないこの時を静かに受けとめていくしかない。フィッツジェラルドがここで表現したのは、そうした残酷さだ。私たちはそれを美しいと思う。100年前の私たちも、100年後の私たちも。きっと同じ痛みを抱えている。

 

 本作に関しては、すでに多くのバージョン違いで翻訳が存在しているように、『グレート・ギャツビー』を映画にしようという欲望がもまた、途切れずに今日まで続いている理由もよく分かる。同時に、その難しさも。

 これを映画にするには、少なくともトッド・ヘインズが撮る映画のような、完全にコントロールされた上質なビンテージ感と、例えばマーティン・スコセッシの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のような馬鹿馬鹿しさを完璧に両立させなければならない。

 それは簡単に言えば、その年の、もっと言えば少なくとも直近5年でもっとも優れた映画を撮ることを意味する。過去に少なくとも3回映画化されている『華麗なるギャツビー』のいずれも観ていないので確たることは言えないが、しかし3回もトライされていること自体、それが達成されていないことの現れなのではないか、とも思う。

 あるいは、本作のあとがきで訳者が言うように、どの監督も互いの映画版を観ながら、「僕の感じている『グレート・ギャツビー』という物語とは、どうしてこんなにも印象が違うものになっているのだろう」と感じているのかもしれない。それくらい、力強く、捉えどころのない世界観が徹底された一作だ。

 

 映画といえば、バズ・ラーマンによる2013年版の『華麗なるギャツビー』の主題歌がラナ・デル・レイで、そのタイトルが「Young and Beautiful」なのは、フィッツジェラルドを原作とした1955年のブロードウェイ・ショーからの引用とはいえ、いささか出来すぎだと思った。あまりにも端的で、あまりにも完璧なタイトルだ。

 「人は永遠には生きられない」――本作中、人生の分岐点の只中にある、とある人物の中で、何度もこだまするフレーズだ。ジャズ・エイジの刹那を生きる、悲しき若者たち。若く、美しい者たち。永遠には続かず、かと言って昔のままに戻すこともできないもの。確かにそれがフィッツジェラルド文学のすべてである。人生が続く限り、それはどうしても失われなければならないのだ。

 

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著者:スコット・フィッツジェラルド
訳者:村上春樹
出版社:中央公論新社村上春樹翻訳ライブラリー〕
初版刊行日:2006年11月10日