Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』書評|演劇が終わっても人生は続く

 二人の男が、「ゴドー」なる人物を待っている。一本の木の前で、土曜日に待ち合わせ、という約束になっていた。しかし、ゴドーは一向に現れない。いつまで待ってもやってこない。

 次第に二人は、昨日もここに来て、こうして同じように待っていたような気がしてくる。仮に、昨日もこの場所に来ていたのだとすれば、昨日が土曜日だったのか? しかし、結果としてゴドーに会えなかったということは、昨日は土曜日ではなかったということなのか?

 で、今日こそはということでまたここに来たのに、またもや会えないということは、いったい今日は何曜日なのか? ゴドーはすでに行ってしまったのかもしれないし、あるいはこれから来るのかもしれない。分からない。もはや本当のところは誰にも分からない。

 こうなってくると、約束自体が怪しく思えてくる。約束の際、ゴドーは「考えてみよう」と答えたというが、その言葉の曖昧さ以前に、もはやゴドーが実在するかさえ定かではない。我々は、本当に誰かと約束をしているのか? これで本当にゴドーを待っていると言えるのか?

 それでも、不確かな「その時」をただ待ち続けることしかできないのだとすれば、私たちの人生とはいったい何なのか?

 

 濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』において、最初に劇中劇として登場するのが、(チェーホフの『ワーニャおじさん』ではなく)この『ゴドーを待ちながら』である。概ね、上記のようなミニマリズムが二幕に渡って持続する。

 家福(西島秀俊)を相手にふわっとした感想を喋らせ、若き俳優・高槻(岡田将生)の文学的教養の程度を示唆するという演出意図を別とすれば、劇中で何か具体的な言及があるわけではない。映画に関するネット上の感想文もそこそこ検索し、ざっと目を通してみたが、そこでもそれほど多く言及されているわけではない。

 無視しようと思えば無視できるほどの細部、引用の断片に過ぎないのかもしれない。だが、芝居の断片だけでも十分に伝わるほど有名な作品のタイトルを、わざわざフライヤーを映り込ませてまでしてはっきりと分かるように演出したからには、何か映画の主題と関連していると考えるのが普通だろう。

 

 一応、ベーシックなところを先に確認しておこう。『ゴドーを待ちながら』は、訳者による巻末の解説文にもあるように、一般的には――確かに、口にするのも気恥ずかしいほど陳腐な解釈ではあるものの――ゴドーを「ゴッド(神)」のもじりと解釈して、「神の死のあとの時代に神もどきを待ち続ける現代人」をシニカルに描く寓意的な作品だと受け止められている。

 実際、彼らは間違いなく大いなる何かを待っているのだし、ある男の登場をゴドーの到着と勘違いした際には、「わたしたちは助かった!」と喜ぶ場面がある。なるほど、二人がゴドーに期待しているのは、「一つの希望」であり、「漠然とした嘆願」、すなわち何かしらの「救い」のようである。

 だが、いったい二人が何に苦しんでいるのか、その内容は最後まで明かされない。ただ、それはゴドーの到来をもってしか治癒できない苦しみなのである。傍から見れば、ゴドーを待つこと自体が二人の苦しみを増幅しているように思えてくるのだが。このように、本作はまず、到来し得ないことが自明な「救い」を待ち続ける不条理劇として存在している。

 

 しかし、改めてこうやって読み直してみると、そうした不条理に二人が没入しきった不条理劇そのものというよりも、そこから一歩か二歩程度、距離を置いた不条理劇のパロディのようにも思えるのである。

 観客に話しかけたりこそしないものの、一部の演出では劇中世界には存在していないはずの「実際のこの」劇場の幕や空間を使うなど、メタ的な視点が導入されているし、そもそもの話、二人はそれほど必死ではないように思える。

 ゴドーなんて本当はやってこないし、自分たちも本当はゴドーなど待ってはいないということを、二人は気付いているのではないか。というか、「待ち続けること」そのものが、彼らにとっては必要なのではないか。あらゆる人生の無意味さに耐えるために。

 つまり、「待つべきもの」がもう何もない時代に、「待つこと」そのものが自己目的的に必要な状態を、不条理劇の形式を借りて表現したパロディとしての演劇が本作である。その気になれば、演劇が終わったあとの演劇、と言うことだってできるだろう。そこでは、『ワーニャおじさん』などかび臭い古典に過ぎないのかもしれない。

 

 映画『ドライブ・マイ・カー』の話に戻るが、『ゴドー』を演出、自らも出演し、多言語による変奏を試みていた家福からすれば、演劇はすでに成熟期を過ぎた「壊すべきもの」だった――少なくとも彼にはそう見えていた――のかもしれない。多言語という自らの実験性は取り入れてはいたものの、『ワーニャおじさん』だって、あくまで職業的な技術によって演出すべき古典だったはずだ。

 だが、ワークショップのような形で演出することになった、彼からすれば教科書的な題材であったはずの『ワーニャおじさん』こそが、彼の人生を揺さぶるのである。彼は、自らの人生に到来した離別の予感を受け入れることができなかった。メタ不条理劇であったはずの『ゴドーを待ちながら』に対してベタに没入してしまう過ちみたいに、彼は妻の秘密なるものの解明を待つことになってしまうのである。

 

 待つことそのものが目的と化した世界では、人生の無意味さを取り払うための選択や決断に伴う責任を外部化しておけるし、期待を裏切られたり、傷つくこともない。それはある意味で村上春樹的な世界観だし、まさしく「ゴドー待ち」というほかない状態である。

 映画『ドライブ・マイ・カー』は、真面目に言えば、それを克服するための物語なのだ。一度は「ポスト演劇」のようなレベルにまで達していた家福という男が、チェーホフのベタな準古典演劇に人生を内側からえぐられるまでの、いわば人生と演劇の「定着」を描く物語だったと、今となっては思える。

 大丈夫。演劇は終わっていないし、物語も終わっていない。私たちの、このあてのない人生がみっともなく続いている限り、それは必要とされるのだ。永遠に、切実に。傷つくべき時に、「正しく傷つく」ことができるように。

 

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著者:サミュエル・ベケット
訳者:安堂信也、高橋康也
出版社:白水社白水Uブックス
初版刊行日:2013年6月25日