Trash and No Star

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サンテグジュペリ『星の王子さま』書評|この世界を満たしているはずの「ほんとうのこと」についてのほんとうの物語

 ほんとうに、ほんとうのこと。それはボアのこと。原始林のこと。花やヒツジのこと。そして星のこと。この世界を満たしているはずの、そんなほんとうのことについての、ほんとうの物語。

 「最初に読みおえた時の気持が忘れられません」というのは宮崎駿の言葉だが、まったくその通りだ。何度読み返してみても、自分の中の何かが大きく揺さぶられるのを抑えられない。それでいて、言葉にしてしまえば台無しになってしまうものばかりで、どうにも感想の書きようがない。

 ここには永遠がある。どうにか私に言えるのは、それだけである。

 

 再読のきっかけは子ども。対象年齢が5歳から、という情報をネットで見かけたので、たまには長いお話でもいいかなと思って寝かしつけの一冊に採用してみたのである。

 その後、どうにか4日ほどかけて最後まで読んだのだが、さすがに未就学児にはまだまだ難しかったようだ。自分なりに読み比べて、文章のタッチが一番しっくりきた集英社池澤夏樹訳を持っているわけだが、いざ音読していくと、いくつかの言葉は場違いなまでに硬く、子どもの身体にほとんど届いていないことがよく分かった。読む方は、不意をつく言葉の連続にハッとするあまり、読むのにつっかえてしまう箇所がいくつもあったのだが。

 どうやら、「5歳から10歳までの子供が自分で読める」と謳っているのは、同じ池澤訳でも「新・新訳」で絵本になったバージョンらしく、そちらはもっと簡単な言葉が使われたりしているのだろう。もっとも、こちらの文庫バージョンでも毎日続きを読んでほしいと言ってきたし、絵の少ない「大人の本みたいな本」を最後まで読んだという事実に特別な意味を感じているようではあった。

 何よりタイトルがいい。訳者あとがきにもあるように、これ以上の題はちょっと考えられない。この先、子どもたちが自分の意志で再読する機会があるかは分からないが、少なくとも『星の王子さま』という本がこの星に存在していることだけは忘れないだろう。もしかしたらそれは、人生において何かしらの助けになる日がくるかもしれない。ちょっと大げさな話かもしれないけれど。

 

 内容を少し、確認しておこう。訳者あとがきの警告を無視して要約するならば、本書が全体として表現しているのは、「大人への憎悪」のようなものである。

 しかもそれは、自らの星を去って宇宙の旅に出ることになった王子さまが、様々な星で様々な大人たちと出会う中で抱く素朴な疑問として、ユーモラスに表現されているのだ。それは「大人は判ってくれない」というよりも、「子どもは判ってあげない」というか、「大人は何も判っちゃいないのだから、大人の判らなさを子どもは判ってあげないとさすがに可哀そうだよね」くらいの大人びた寛容さを伴っている。

 

 従えるべき臣民が誰ひとりいない星で、それでも権威にしがみついている孤独な王様。

 比べるべき相手が誰ひとりいない星で、自分が一番だと信じて疑わない自惚れ屋の男。

 酒を飲んでいることを忘れるためにもっと酒を飲まなければならない酒飲みの男。

 星の所有権を登記してすべての星を手に入れたにもかかわらず、それに触れることすらできないビジネスマン。

 自分の置かれている環境条件が根本的に変わってしまったにもかかわらず、定められた規則に「規則だから」と従い続ける点灯夫。

 山や河や砂漠についての第一人者を自称しているのに、ほんとうはそれらについて何ひとつ知らない地理学者。

 

 子どもは「変なのー」とケラケラ笑うだろうが、読み聞かせている大人は自分のことを皮肉られているようで落ち着かず、「これは児童文学にとどまらない傑作だ」なんて言ってお茶を濁すのがせいぜいである。本当は、自分の中に潜む王様やビジネスマンを鋭く見抜かれてしまった衝撃で、立っているのも精一杯という状況なのだが。

 

 今回、じっくりと読み返すなかで、子ども相手にもっともニュアンスが伝えにくく、かつ自分でもうまく咀嚼できなかったのが、「飼い慣らす」という言葉である。

 これは後半、王子さまとキツネが出会い、交流するなかで何度も繰り返されるお話のキーであると同時に、歴代の訳者たちを悩ませてきた鬼門でもある(「星の王子さま 飼い慣らす」で検索!)。これを自分なりの言葉に置き換えられなければこの本を読んだことにはならないかもしれない、と思いつつ、結局思いつかなかった。

 

 その代わりに、またもや無謀な要約をひとつ付け加えておこう。自分が愛し、この世界に「たった一つ」だと思っていたものが、実は「ワン・オブ・ゼム」でしかなかったことが分かった場合、それでも「ゼム」と「ワン」を分けるものは何か、というのが『星の王子さま』の主題である。それが「飼い慣らす」ということなのだが、ひとまず置き換えるのなら、それは「時間を捧げる」ということだろう。

 事実、その後に登場するエピソードはすべて、「人間の知恵によって時間を省略すること」に関連している。猛スピードで走り去る急行列車。一週間分ののどの渇きを一気に潤す不思議な薬。要するに「タイパ」がよく、「生産性」の高いものばかりである。でもそんなものは、王子さまに言わせれば「無駄な苦労」なのだ。そんなに急いだところで、大人には何も見つけられやしないし、どこにもたどり着けやしない。自分がほんとうに求めているものが何なのかを分かっていないのだから。

 

 だが、王子さまが完全に独立したポジションから大人を天真爛漫に嫌悪できているのかというと、そうではないということが、今回わかった。少なくともこれは、星の王子さまにとっては絶望の物語なのだ。

 王子さまは宇宙の果てへの旅のなかで、知った。自分がウンザリして置いてけぼりにしてきた花を、自分がすでに飼い慣らしていたのだということを。自分は二度と戻らないこの時間を相手に捧げており、彼女もまた、二度と同じようには流れない時間を自分に捧げていたのだ。重い言葉だが、そこには「責任」が伴うことを王子さまは知ってしまった。

 物語の終盤、これと対になるようにして繰り返されるメッセージがある。自分にとっての「ワン」がどこかに隠れていると思えば、幾千の星も、幾万の「ゼム」も、愛おしく思えるのだということである。世の読者たちからは人気のメッセージであろうが、それは冷静に読めば、王子さまがある種の慰め、もっときつく言うなら自己正当化のために繰り返していた言葉にも思えるのである。

 結局のところ、王子さまが気付いたのは、自分の命は幾億の「ゼム」に博愛的に使われるのではなく、自分が飼い慣らした「ワン」のためにこそあるのだということなのだから。しかし王子さまは、自分の星に戻る手段を持たない。宇宙の端っこと端っこに隔てられた、たったひとつの「ぼく」と「花」。もう会うこともない。その絶望の深さ。そこに漂うのは間違いなく死の気配であり、最後は読むのが怖いくらいだった。

 

 子どもに読んでおいてなんだが、こんなに悲しい物語が、さも有り難い教訓に満ちた「大人でも感動できる名作」みたいな感じで売られていることに強い違和感を覚えた。これは、世界のほんとうの仕組みを知ってしまった子どもたちの内緒話なのであって、大人たちが自分たちの忘れてしまった教訓を思い出して有難がるための物語ではないのだから。

 

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著者:アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ
訳者:池澤夏樹
出版社:集英社集英社文庫
初版刊行日:2005年8月31日