Trash and No Star

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比嘉春潮・霜多正次・新里恵二『沖縄』書評|沖縄差別の根源を探る

 沖縄から、本土に向けて書かれた本である。基本的には問題提起、あとがきの言葉を借りるなら「告発」であるが、できる限り感情を抑え、努めて歴史的な観点から、それは書かれている。

 

 初版は1963年の1月。中野好夫新崎盛暉の共著『沖縄戦後史』によれば、島ぐるみ土地闘争後の「過渡期」を経て、安保条約改定をにらんだ「復帰運動」が始動した時期とされている。実際、本書にも「祖国日本」への復帰を願う切実さが満ちており、コザや那覇の街中にひるがえる大量の日の丸を捉えた写真が巻頭に収められている。

 内容としても、ザックリと言えば「本土と沖縄は同一ルーツである」ことが再三強調されており、このような「沖縄の歴史・文化・民族などについての概括的な紹介書」が正しく本土に届けば、復帰運動もいよいよ全国民的な高まりを見せ、「沖縄が、いかにしてその本来しむべきであった位置を、日本の内部で獲得するかという歴史的に根深い問題」が最終的な解決を見るだろう、と書かれている。

 

 言うまでもなく、この「根深い問題」は今も解決していない。

 復帰50年を経た現代でもその例を挙げればきりがないが、そもそもの話、本書刊行の2か月後には、金門クラブ(ゴールデン・ゲート・ブリッジにちなんだ米国留学経験者の親睦会。山里絹子の『「米留組」と沖縄』に詳しい)の月例会で、高等弁務官キャラウェイが「沖縄の自治は神話に過ぎない」と述べることになるのだ。沖縄の期待や願いは、いつだって踏みにじられている。

 

 この「根深い問題」の原因を、本書はまず何よりも「本土の無知・無関心」に求めている。「沖縄のこころ」が分かっていないとか、そういったレベルの話ではなく、単純に、素朴に、知らないということだ。

 そう、「沖縄には日本語新聞があるのですか」だとか、「沖縄はどこにあるのでしょうね。フィリピンンの近くですか」といった「素朴な非常識」を無邪気に振りまく本土の平均的庶民も、あるいは「沖縄はアメリカの信託統治領」と誤った答弁をして事務方に耳打ちされる時の首相も、その無関心という点では「沖縄ヘイト」と呼ぶほかない現代の沖縄差別とつながっているのだ。

 そして悲しいことに、それは悪意の有無に関わらないのである。むしろその「悪意のなさ」こそが沖縄差別を温存しているとも言えるのではないだろうか。

 例えば、真藤順丈氏の直木賞受賞作『宝島』が、(それこそ先述の首相と同じく)アメリカによる沖縄支配を「信託統治」と記述していることを問題視しているのは、私の知る限り豊下楢彦氏くらいであり(岩波ブックレット『沖縄を世界軍縮の拠点に』p.5参照)、フィクションとは言え、沖縄にコミットし、歴史をリサーチしながら書かれたものですら、そうなのだ。

 

 この圧倒的な「距離」がどこから来ているのかと言えば、沖縄に対する漠然とした「異民族感」だろうと本書は述べている。そして、その異民族感がどこから来ているのかと言えば、それは歴史に求めることができるのではないかと。本書の基本的な建付けはそのようになっている。

 例えば、「日支両属」という言葉が、沖縄の歴史を概括する本にはよく登場する。自分もそのイメージをなんとなく、深い疑問もなく抱いていた。だが、その言葉からイメージされる「中国人でも日本人でもない一種宙ぶらりんな『琉球人』」こそ、薩摩藩首里王府の策略が結実したものであったという。

 当時の沖縄は、実際は薩摩藩支配下にあったが、薩摩藩にとっては沖縄は異国であった方が都合がよく、首里王府にとっては薩摩藩による支配や日本的なものを中国側に悟られるわけにはいかなかった。結果、多くの演出が入り、ある種のフィクションとしての沖縄をめぐる異境、異民族のイメージが形成され、誇張され、流布されていくことになった。

 

 だが、すでに軽く触れたように、本書が強調するのは、沖縄が紛れもなく日本と同一ルーツであり、そのいち分岐であることだ。

 それを歴史学的に、人類学的に、民俗学的に検証していく過程は、雑学的な内容も多く、読み進めるのに多少の時間がかかるのは否めないにしても、復帰運動の熱気にあてられたナショナリズムとして片づけることはできないほど緻密で説得的だ。(これほどの振れ幅は類書でもなかなかないのではないか)

 

 それでも、時代が下れば下るほど、やはりその歴史の歪さに意識が向かってしまう。細かいことはここでは繰り返さないが、ひと言でいえば、それは「圧政と隷属の歴史」である。

 「しまちゃび(離島苦)」という言葉が何度か使われているが、全体としてのフォーカスはやはりそこに向かっており、本書は沖縄の民俗史であり、宗教から文学、音楽、踊りなどに及ぶ文化史であると同時に、その意味では(タイトルがどんと示唆するように)大きな精神史でさえあるだろう。

 

 しかも、ここは自分に欠けていた視点だと気付かされたのだが、ひと言で沖縄と言っても、支配階層と庶民階層とではまた見てきた歴史も違うのだろう、ということ。それがもっとも顕著に出ているのは「琉球処分」の歴史的な評価である。個人的にはまさしく圧政と隷属の象徴、という認識でいたが、本書でその評価は極めて両義的だ。

 有り体に言えば、琉球処分に反対したのは、「そのことによって自分たちの支配体制がくずれることをおそれた琉球の支配階級であって、人民ではなかった」という指摘がなされており、伊波普猷を引きながら、それが「一種の奴隷解放であった」という評価が紹介されている(言うまでもなく、この構図は沖縄戦終盤における日本軍に対するアメリカ軍、という関係でも反復されることとなる)。

 確かに、庶民階層から見れば、それが内部的なものであれ外部的なものであれ、時の為政者たちに都合よく利用されてきた歴史であることには変わりがない。何冊か通史的なものを読んできたつもりであったが、まだまだ表面的な理解しかしていなかったことに気づかされた。

 「琉球」という言葉の評価などもそうだが、今日では固定的になっているかに見える歴史の評価を相対化する役割もまだ本書にはあるように思った。

 

 繰り返しになってしまうが、最後に話を現代に戻そう。あとがきの履歴を読む限り、本書は1963年の初版以降、二度復刊している。

 若干の改稿を行ったという最初の復刊が96年の7月だ。当然、復刊に際してのあとがきでは、「復帰」の実際の振り返りに加えて、この前年に起きた米軍による少女暴行事件とその後の県民総決起大会について触れられている。沖縄の怒り、悲しみ、失意。それは本土の無関心によって繰り返されている。

 自分の手元にあるのは、少し前の「限定復刊 岩波新書ラシックス」で購入した2022年5月に重版されている22刷のものだ。言うまでもなく、復帰50年に際しての復刊だろう。こうした断続的な復刊それ自体が、沖縄の置かれた状況の「変わらなさ」を反映している。

 それと同時に、それでも変化を求める切なる願いが、今なお絶やされていないということでもあるだろう。だが、民意を無視した大浦湾の埋め立て着工を持ち出すまでもなく、本書が解き明かそうとした「根深い問題」はむしろどんどんがんじがらめになって、ほどけない程硬直しているようにすら思える。

 まず、単純に、知ること。本書が提示した最初の一歩は、現実がこうなってしまってはあまりにもシンプルで、泥臭いものに過ぎないのかもしれないが、沖縄が日本において「本来しむべきであった位置」を考えていくための前提として、やはり譲れない一線なのだと思う。歴史を繰り返してしまう前に、まず、知ろう。

 

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著者:比嘉春潮、霜多正次、新里恵二
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:1963年1月25日