これもまた越境者たちの物語だ。戦後の沖縄で、「沖縄」と「アメリカ」を隔てる境界線を跨ぎ、迷いながらも往復した者たちの物語だ。
タイトルの「米留」とは、文字通り米国への留学を指す。この制度が米軍政府によって設立された1949年前後といえば、米軍による場当たり的な占領支配が改められ、予算的な裏付けとともに「沖縄の恒久的な軍事基地建設がはじまった*1」時期であり、その後1956年半ばまでは暴力的な土地の接収が行われ、「沖縄の民衆にとっての暗黒時代であった*2」という。
こうした時代に、アメリカの予算でアメリカの大学へ留学することは、いったいどのような経験だったのか? 戦争に負けた国が勝った国のお世話になる屈辱的な経験だったのか? あるいは、「リンカーンを生んだ国*3」で民主主義の理想に触れる啓蒙的な経験だったのか? 米軍政府が期待していたのは後者のようだが、本書が書き留めた米留経験者たちの声を読むと、答えはこのどちらでもない。
伝わってくるのは、高等教育への「飢え」だ。ちょうど琉球大学が設立される前後の時代、とにかくこれで大学に行ける、ただそれだけだったという主旨の語りが複数あり、印象に残る。アメリカの豊かさに圧倒されつつ、人種差別や格差の「現実」をも目撃しながら、誰もが猛烈に勉強した。限られた選択肢の中で、米留は沖縄を脱出しながら人生を切り開いていく手段だった。
それも単なる「勝ち逃げ」ではなく、米留経験者の多くは、アメリカで得た知見を沖縄に還元しようとしていた。しかし制度の構造ゆえに、「権力と結びつく親米エリート」という冷ややかな視線を浴びせられたこともまた事実だったようだ。実際、彼らは留学前の思想調査に「合格」しているわけで、いわば戦後沖縄において「上方に疎外」された存在だったのかもしれない。
とはいえ、そこには戦略的な「擬態」もあったことだろう。本書が描く米留の歴史は、冷戦下の沖縄統治をエリート教育によって内から補強していこうとするアメリカ側の思惑と、一方ではそこに乗りつつ、また一方ではそれを巧みに利用していこうとする留学者たちとの駆け引きの歴史にも思えた。
もちろん、それを「戦略的な抵抗」と一括りにすることはできない。だがそれでも、この制度が大田昌秀を輩出したという皮肉な事実からは、戦後沖縄の複雑さ、こう言ってよければ「したたかさ」を感じずにはいられないのである。沖縄戦後史の知られざるアナザーサイドだ。
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