1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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阿波根昌鴻『米軍と農民』『命こそ宝』書評|沖縄からは「安保」がよく見える

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 岩波新書に残されたこの2冊は、ウィキペディアによれば阿波根昌鴻という伊江島の「平和運動家」による闘争記であり、また著者自らの言葉を借りるなら「農民の、小学校しかでていない、明治生まれのものの体験談」である。

 基本的には、沖縄の戦後史に関心を持つ人への内容ではあるだろう。だが、むき出しの軍事力によって世界がこんなにも変わってしまった今、これらの本を読み返す第一の意味は、「戦争を一般化しないこと」にあるとも言えるのではないか。

 どの戦争にも固有の原因があり、固有の加害者と犠牲者がいて、固有の「戦後」がある。どの戦争も悲惨だが、その悲惨さは決して同じではない。それを一緒くたにはできないし、するべきではない。

 そういうことを、自分が生き延びた戦争と、自分の目で見てきた加害者、あるいは被害者と、そして何よりも、自分がいま生きている「戦後」の現実を、できる限り具体的に語る中で描き出しているのだ。

 

 元々が開拓地であった伊江島では、ひどい貧困ゆえに「畑を買うために子どもや弟を売るのは普通のこと」だったという。そこに地獄のような沖縄戦が来る。多くの住民の命が失われた上に、戦後に待っていたのが米軍による土地の取り上げだったのだ。

 

真謝の復興と生活の安定は、これからというところでありました。もう戦争はわすれよう、平和でありさえすればいい、と思っていました。そこへ、戦争にも劣らない、いや戦争よりも大きい不幸が真謝の農民にのしかかってきたのであります。

 

 特に大きな衝撃が残るのは、戦後から復帰までの土地闘争を綴った『米軍と農民』の方だ。軍用地の確保を狙う、時に信じがたいほど狡猾で、時にただただ暴力的な米軍の所業を知ると、「戦争にも劣らない、いや戦争よりも大きい不幸」という言葉が決してオーバーなものではないことが分かる。

 実際、著者らの行動でもっとも有名なのは、1955年、沖縄本島での「乞食行進」であろう。農地を取り上げられた島の人々は、大半が栄養失調、その先には餓死のみが待つという状況では、「もう乞食する以外にはないのではないか」、それが彼らの達した結論だった。

 一方、復帰後をまとめた『命こそ宝』の方では、闘争相手が「日本政府」になっているが、底にあるのは復帰でなにも変わらなかった、という実感だと思う。「米軍は銃剣でわしらの土地を取り上げましたが、日本政府は法の力で強奪したのです」という言葉が本質をついている。姿かたちを変え、続いていく抑圧や暴力。

 

 その果てにたどり着いた、書名にもなっている「命こそ宝」というフレーズは、単に「戦争の残酷さ」や「命の大切さ」を呪文のように唱えるものではない。「その残酷な戦争は誰がどうしてつくったのか」という根本的な問いがセットなのである。

 そして、その大きな問いへの眼差しこそが、まさに命がけの、『沖縄現代史』で新崎盛暉が「捨て身の抵抗」と書いた伊江島の激しい闘争運動の中にあってもなお、著者らを反米的な憎しみだけには支配させなかったのだと思う。

 きっとそのせいだろう。著者は伊江島の闘いを表現する際に使われる「非暴力直接行動」という体系的な物言いに対し、当事者としての微妙な違和感を隠さず、「何より相手のことを考える闘い」という言葉で言い直すのである。

 

 そう、自分らは農民だが、土地泥棒たちには精神面で勝っている。そしてどちらが正しいかは神さまが知っているのだから、誰か一人でも抵抗を続けていればこちらの勝利である。そういった静かで誇り高い確信が運動の根っこを支えている。

 その確信があるからこそ、戦争の準備を進める米軍に対し、来るべき破滅の歴史的必然性を説く。彼らの「抵抗」は命がけで、捨て身でもあるのだが、より大きな視点から見れば「導き」でもあるのだ。まさに「聖なる農民」という言葉がぴったりだ。

 

 とはいえ、庶民の抵抗運動を英雄視するというカウンターカルチャー的な誘惑を、この2冊からはできる限り遠ざけておきたいし、またそうしなければならない、と思う。「生産が第一、たたかいが二番目」とあるように、彼らにとっての土地闘争とは、まさに「生きるための抵抗」であり、もっと言うなら「生き延びることそのものが最大の抵抗」であったとさえ思うのである。

 

 両書とも、前書きにあるのは市井の人々への眼差しだ。「みな、だまっています。真謝の農民はたたかいました。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのでした」。それは、上間陽子が『海をあげる』に書いた「生活者たちは、沈黙している」という言葉ともつながっているだろう。

 政治とも単純にはつながらず、ただ一人の怒れる庶民として、何度叩きのめされても立ち向かう。著者を突き動かしていたものは、きっとこの沈黙への眼差しである。沈黙は肯定を意味しない。真謝の、伊江島の、あるいは沖縄の沈黙は、その闘争と同じように激しいのだ。

 

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(写真左)
著者:阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:1973年8月20日

 

(写真右)
著者:阿波根昌鴻
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:1992年10月20日