1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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アケミ・ジョンソン『アメリカンビレッジの夜―基地の町・沖縄に生きる女たち』書評|どっちつかずの現実から目をそらさないために

 有刺鉄線のフェンス。その向こう側に広がる、沖縄の中のアメリカ。ならば、こちら側はアメリカの辺境としての沖縄だろうか。しばしば両者を媒介する、地元女性と米兵との恋愛――それは、ある種の沖縄現代史が半ば意図的に見落としてきたものかもしれない。フェンスに隔てられた「ふたつの沖縄」が重なり合うとき、家父長たちによって無視されてきた「厄介な現実」がリアルに浮かび上がる。

 

 著者が美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジで見た、「海兵隊員と一緒に笑い声を上げる迷彩服のへそ出しルックの沖縄人女性たち」。黒人米兵との結婚を熱望し、クラブ通いを続ける第2章の「イヴ」が、イメージとしては一番近いか。

 あるいは基地を所与の前提と見做す、若きアメリカン・ワナビーズ(アメリカ人になりたい人)たち。こうした若者たちの姿は、地獄のような沖縄戦に従軍看護隊として動員された女学生のイメージからも、時に島ぐるみで展開される抵抗運動のイメージからも理解しにくい存在だ。

 だが、いやだからこそ、著者はその実像をルポルタージュの形で捉えようとした。そこに埋もれている「声」があることに気付いていたから。

 

 目次には、各章のタイトルとして11人の名前が並んでいるが、人物像は実にさまざまだ。例えば、米兵と沖縄人女性との結婚を、基地の内側でサポートするアメリカ人の「アシュリー」。自身も元米兵の夫と結婚し、基地の外側で沖縄人女性からのトラブル相談に応じる「アリサ」の二人はコインの両面のよう。

 元黒人米兵と沖縄人女性の間に生まれた「ミヨ」は、「私が日本人かどうかはまだわからない」と語る一方、基地で働く傍ら、地元住民と海兵隊員との交流イベントを手掛ける「エミ」は、「ゲートからフェンスの中へ入ったとたん、私はちょっとだけアメリカ人になる」と語る。

 

 念のため言い添えておくが、著者が沖縄の植民地的状況に心を寄せているのは間違いない。が、こうした越境的な「女たち」の存在を描き、世に問うことは、どうしたって政治的な効果を生んでしまうだろう。「沖縄は基地を受け入れ、明るく共生しているではないか」と。

 だから、沖縄の伝統的な基地反対派は、もしかしたら彼女らの存在を「特殊な例外」として除外しようとするかもしれない。第11章の「アイ」が友人の米兵を抗議運動の現場に連れていき、「君がその手の女の子だとは思わなかったよ」と男性年長者に怒鳴られたように。

 

 本書はそうした政治的効果に対して十分に自覚的な上で、それでも越境する「女たち」を描く。見えてくるのは、社会が当然に有する曖昧さを寄せ付けない、一部の人々の抱く「単純化された幻想」である。その幻想に沿わない存在は、無視されるか、政治的に利用される。どちらにしても彼女たちの「声」がどこかに追いやられていることに変わりはない。

 強いられた沈黙の向こう側には、しかしタフで、曖昧で、複雑な現実が、幻想とは無関係にどんどん育っているのだ。実際、阿波根昌鴻を精神的支柱とし、辺野古での非暴力直接行動を続ける活動家「チエ」の孫たちは米兵と結婚したという。おそらく、沖縄ではこういうことが普通の日常なのだろう。それを無視すべきではない。それが本書の投げかけだ。

 

 アメリカンビレッジの夜から始まった旅は、読者をずいぶんと遠い場所まで連れて行く。そこでは、「アメラジアン」に押し付けられてきた否定的なイメージが、可能性としての曖昧さへと裏返る。

 私たちに求められるのは、曖昧な立場から発せられるどっちつかずの声に耳を傾け、幾重の抑圧の中で何度も先延ばしにされてきた「女たち」の結論を待ち、聞き取ることなのだろう。


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著者:アケミ・ジョンソン
訳者:真田由美子
出版社:紀伊國屋書店
初版刊行日:2021年9月10日

 

※重要作であるため、上限文字数を超過していることを申し添えます。