Trash and No Star

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ジョージ・ミラー監督『マッドマックス 怒りのデス・ロード』映画評|The Best Movie of the last Decade


(画像は公式Twitterから)

 

 何度観直してみても、この「過剰なまでの単純さ」に惚れ惚れしてしまう。惚れ惚れというか、実際はエンドロールが流れる画面の前でただ茫然としているだけなのだが。

 この衝撃は、初めて劇場で観た時から少しも変わらない。あれからもう、10年ほどになるのだろうか。近く、最新作が劇場公開になるとの報せを聞いて、なんとなく見始めたらそのまま最後まで止まらなかった。

 もちろん、数多のメディアで「2010年代最高の映画」の一つにも数えられたこの作品を全く知らないという人もあまりいないだろうし、こんな記事を用意したところで、すでに言い尽くされた内容を無残に繰り返すことになるのはわかりきっている。

 それでも、称賛の声をまた一つ、ここに連ねようと思う。新作『マッドマックス:フュリオサ』鑑賞前に、改めてこの作品と自分なりに向き合ってみるためにも。

 

 周知のとおり、物語の舞台は、核戦争により荒野と化した死せる世界である。それを国家と呼び得るのかは定かでないが、一部の独裁者が水と化石燃料を独占し、住民を従えることで、一定規模の集団が荒野のところどころにまばらに存在している。

 過去に自分が助けられなかった人々の怨念をフラッシュバックのように抱えたまま、荒廃した大地をあてもなく放浪する元警察官の男=マックスが捕虜となった国では、イモータン・ジョーという独裁者が神として君臨している。荒んだ生活環境ゆえに限られた寿命を生きるしかない戦闘奴隷たち=ウォーボーイズにより巨大な軍隊を組織し、男系の子孫をその幹部に据えることで、国の統治や他国との商業取引までをも思いのままに操っている。

 住人たちは、時折ジョーの根城から気まぐれに放流される水を痩せ細った身体でかき集め、僅かな泥水を啜りながらどうにか暮らしている。一方、ジョーから選ばれた一部の美しい若年女性たちは、文字通り「産む機械」として所有され、男系子孫の繁栄のため、絶え間ない妊娠と出産を繰り返している。また、その下には「母乳製造機」として延々と搾乳され続ける層も存在しており、女性はこの独裁国家にとって「設備」でしかないようだ。

 

 もちろん、ここには同時代にも通じ得る「支配」や「痛み」の構図が再現されてはいるだろう。この映画を物語として捉え、その意味を考えるのなら、むしろそれこそが正当な「解釈」ないし「考察」であるようにすら思える。

 だが、寓話的に解釈するにはあまりにも単純な、その図式的な終末世界をいったいどう受け止めるべきなのか、判断する間もなく映画は動き始め、一気に加速していく。好むと好まざるとにかかわらず、まずはその加速度に身を委ねるほかないのが、この『怒りのデス・ロード』という映画である。

 

 ジョーら軍政府の幹部がその「異変」に気付くのは、敵対国との商業取引に向かったはずの軍の隊列が、進路を大きく変更することによってだ。

 果たしてどんな過去を歩んできたのか、失われた左腕と、首に押し当てられた奴隷の烙印からただ想像することしかできない、軍隊唯一の女性幹部=フュリオサが、現場で変更指示を出したのである。もちろん、隊員たちには事前に知らされておらず、政権の幹部周辺は騒然となる。

 新作『フュリオサ』で明かされることになるであろう、彼女の過去は、ここでは徹底的に省略されており、人は一連の事態を、ただ画面に映し出される表層の中から断片的に理解していくほかない。物語の「意味」を、「テンポ」が上回っているのである。そうやって『怒りのデス・ロード』はまず、前触れのない「逃走劇」として起動する。

 

 その過剰なテンポ感との均衡を図るように、戦闘員用の「輸血袋」として戦場に捕虜のまま動員されるマックスはまったくの無力なまま縛り付けられ、あらゆる運動を奪われ、その「解放」も「死」でさえもが悪戯に引き延ばされている。

 事態が展開していく中で少しずつ自由に近づくものの、捕縛用の鎖やマスクは外れそうで外れず、マックスは全体のテンポを乱すフラストレーションとして、あくまで例外的に存在しているに過ぎないのだ。そこでは、「名乗ること」さえ徹底的に先送りされている。

 

 こうしたリズムの「ズレ」が、少なくとも前半パート(逃走のための往路)の骨格である。しかも、ウォー・タンクに乗り込む者たちは皆それぞれ異なる目的を持っており、彼らが辛うじて共有する「逃走」のイメージも次第に曖昧になり、やがて霧散していく。

 実際、フュリオサが目指しているのは、水と緑で溢れている(はずの)自らの生まれ故郷なのだが、それが「約束の地(Promised Land)」として象徴化されてしまっている以上、そこに彼女が到達し得ないのは映画的な必然と言うべきであり、彼女の命懸けの逃走は、やがて袋小路を目指すだけの空しい疾走となるほかない。

 むしろそれは、数多の追手から命からがら逃走する「往路」をいったん終わらせ、そこにより激しい「復路」をつけ加えるためのエクスキューズでしかないのだ。行って、また戻ってくるだけ。 超絶的なエフェクトで装飾され、一切無駄なショットを挟まない編集によって極限まで圧縮された過剰な映像世界は、その往復運動を際立たせるためだけに用意されているのだ。

 だから本作の強度は、その過剰なまでの単純さと、省略の美学のなせるものだと、ひとまず断言しておこう。実際のところ、この往復運動が撮れれば題材なんてなんでもよかったんじゃないかとすら思えるし、それは決して、「約束の地」や「不在郷」といったキーワードから誘われるような文学的な想像力を喚起するものではないのだ。

 

 やがて、一度は逃げ切った追手の大軍にその姿を愚かにも晒しながら、「闘争」のための復路が荒野の中にただ真っ直ぐと引かれていくとき、人はジャイアント・キリングの予感に興奮するというよりも、この映画が今まさに描こうとしている軌跡の単純な美しさに打ち震えることになるだろう(突入前に決意を固めるシーンが特典のボツ映像に入っているが、これは省略して正解である)。

 実際、ずれたリズムは一つとなって強いビートを鳴らし始め、ウォー・タンクは確たる目的地へと向かって再び疾走する。いったいこのすごい映画は何なんだと呆気にとられながら、人はマッドマックスシリーズの『1』(1979年)でも『2』(1981年)でも『サンダードーム』(1985年)でもなく、ジョン・フォードの『駅馬車』(1939年)を確かに思い出しながら、なるほど、この過剰なまでの形式主義は西部劇から来ているのだと不意をつかれながらも納得することになる。

 あるいは、ウォー・タンクの中でたまたま形成されたリズムのずれた共同体が、明確な指揮・命令系統を持つことなく、それぞれの役目を果たす中で勝利を達成するというある種の理想主義は、高揚に任せて「アメリカ的達成」とまで言うことはできないにしても、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)的勝利と言うくらいのことは許されるだろう。なんと美しい映画なのだろうか。

 

 つい興奮してしまったが、そろそろこの、過剰なまでに単純な文章も終わりにしよう。「意味」に「テンポ」が勝り、「物語」に「形式」が勝るこの映画を、2010年代の神話たらしめたジョージ・ミラーは偉大である。ここにあるのは、「映画は映画だ」という過剰なまでに単純な喝破だ。新作『フュリオサ』が2時間に収まっていないことはやや気がかりだが、近く劇場で全貌を見届けるつもりである。

 

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監督:ジョージ・ミラー
劇場公開日:2015年6月20日

 

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