1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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スパイク・リー監督『ドゥ・ザ・ライト・シング』映画評|何と「ファイト」すればこの憎しみ合いを止められるのか

 警官に喉を押さえつけられ、意味もなく死亡した黒人男性たち。彼らは最後、「息ができない」と苦しみながら息絶えたという。SNSでBLM運動が盛り上がろうと、下火になろうと、評価・検証すべき「歴史」になろうと、そうした犠牲者は耐えることがない。

 その意味で、「息ができない」と言い残すことさえ許されなかった黒人青年の死と、それをきっかけに発生したある夏の暴動を描いたスパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』は、実に普遍的な映画である。「残念ながら」と付け加えるべきかもしれないが。

 

 ただし、本作が描く人種対立は「黒人対白人」というシンプルなものではない。「アメリカ白人ではないその他の人々」という括りで、アフリカ系の黒人に加えて、ピザ屋を経営するイタリア系の親子や、路上をうろつくプエルトリコ系の少年、そして今でいうコンビニのような商店を営む韓国系の夫婦らが一緒くたにされ、街の下層をなす「二級市民」として描かれているのである。

 ピザ屋の長男は自分がヨーロッパ系の白人というだけで自らの立場を優位なものと自明視し、黒人に対して憎悪と偏見むき出しだし、逆に韓国系の夫婦は黒人と自らの境遇を同類視しようとして反感を買う。アメリカの理想とはかけ離れた停滞感が、伝統的ハリウッド映画の手法としか言いようのない丁寧なショットの積み重ねと、ストリングス・アレンジの施されたサウンドトラックで描かれていく。

 それは「持たざる者同士の憎しみ合い」であり、連帯への手がかりは見えないまま、人々はバラバラになってしまう。普段ならば多少のイライラで済んだかもしれない人種間の緊張は猛暑のブルックリンでついに引火、街は憎悪の炎で焼かれてしまうだろう。冒頭、「普遍的な映画」などと書いてしまったが、やはりこれを普遍性と呼ぶべきではない。絶望的な、うんざりするほどの既視感である。

 

 そうした、2022年の今もなおその現在性を失わない問題提起としてこの映画を観てみると、物語の最後、パブリック・エネミーによる主題歌「Fight The Power」が死者の遺言のように流れるとき、そのシンプルで力強いスローガンが、むしろそれゆえにどこか空しく響いて聴こえたのは自分だけだろうか。

 もちろん、ちょうどスパイク・リー自身がチャールズ・ロートン監督の『狩人の夜』から右手と左手に分かれた「愛と憎しみ」を引用しているように、「権力と闘え」という檄文もアイズレー・ブラザーズからのサンプリングに過ぎないと言えば過ぎないのだし、それだけを取り上げてあれこれ批判を繰り広げるのもフェアではないだろう。

 だが、それを差し引いてもなお、この映画が描いている複雑さに相応しいスローガンにはどうしても思えなかった。この映画における「権力」とはいったい誰なのか。ある特定の「パワー」に抗い、ぶちのめせばこの状況は変わり、あの暴動は止められたのだろうか。事態はそれほど単純ではないように思う。

 

 ちょうど入門書を何冊か読んだところなので、基本的な事実をいくつか確認しておきたい。公民権運動が頂点に達しようとしていた1964年頃、北部の都市部(ゲットー)を中心に「ロング・ホット・サマー」と呼ばれる暴動の季節が到来していた。「大規模なものだけでも延べ150以上を数え、1968年まで5年にわたって、とだえることなく繰り返された*1」という黒人たちの怒りの爆発は、白人保守勢力による「反動」へのカウンターでもあった。

 仮にこの時期の暴動を描いた作品であれば、その主題歌のサビが「権力と闘え」でも何の違和感もなかったかもしれない。だが、舞台はそこから20年以上も経過したブルックリンであり、各種の統計によれば、積極的是正措置による「全体としての」黒人の地位が向上した事実は踏まえておくべきだろう。もちろん、それゆえに同じ黒人間での階層格差や分極化がさらに進んでしまったことも指摘されているわけだが。

 

 しかしここで一緒に思い出さなければならないのは、「ロング・ホット・サマー」の嵐が吹き荒れた1965年は、アメリカが新たな移民受け入れを加速し始めた年でもあったことである。いわゆる「多文化主義」時代の幕開けであり、アメリカという国に「白人対黒人」という構図だけでは見えない新たな亀裂が入り始めた時代でもあったのだ。この映画が描くアメリカは、言うまでもなくその延長線上に存在している。

 事実、本作でも描かれているように、韓国系の移民は「黒人やヒスパニック系の低所得者層を対象に青果店、酒販店、雑貨店などを始め、長時間家族労働をものともせずに働き瞬く間に豊かになっていった*2」ことなどはドラマの重要な前提として知っておくべきかと思う。編集のテンポやセリフ回しはほとんどコメディ映画のそれであり、タッチは軽いが、ここまでを踏まえてようやく、「持たざる者同士の憎しみ合い」の背後で、どのような歴史と感情が動いているかが少しだけ分かる。

 

 ベスト・ブラック・ムービーとも称されるほどの著名作であり、未見という人も少ないと思うが、一応ストーリーにも触れておこう。監督でもあるスパイク・リーが演じる男は、ピザ屋で配達の仕事をしているが、満足な収入がないがために妻子が待つ家には寄り付かず、妹の家に家賃も払わず居座って暮らす日々である。

 この男は基本的に、何者でもない。似たような過去を人知れず抱えて生きる老人に「いつだって正しいことをしろ」と諭され、意識の高い友人に「ブラックのままでいろよ!」と諭されても目立った反応はなく、たとえ人種主義丸出しの相手と口論になっても「俺は過激派じゃねえ」と言って挑発をかわしている。そこでは生活が優先されている。雇用主との議論に勝っても飯は食えない。この匙加減がうまいなと思う。

 唯一、ルイス・ファラカンの名前を訂正する件で真顔になるあたり、彼が飄々とした表情の奥に隠した思想めいたものが垣間見えて緊張が走るが、結局はうやむやにされ、彼のうちに秘めたエネルギーは給料の前払いを店主に交渉することに費やされてしまう。分かりやすい「敵」はおらず、明確な「出口」もない。強いて言えば彼らの敵は貧しさであり、持たざる者同士が憎しみ合うように仕向けられている大きな構造である。

 

 何と「ファイト」すればこの憎しみ合いを止められるのだろうか。最後には確かに、「ファイト」が描かれる。あるいは、持たざる者同士の「連帯」のようなものも。しかし、それが希望として描かれているわけではないことは明らかである。ここにあるのは、それでもファイトを「選ばざるを得ない」アメリカ黒人の行き場のなさだろう。

 その意味で、スパイク・リーはこの映画で現実を超えるものを何一つ描くことができなかった。ゲットーに取り残されたアメリカ黒人の人生を、やり場のない怒りの中で描いた。それだけ、現実の力が強いということでもあるのだろう。同時に、その後の「現実」の世界そのものも、決してこの映画を超えていないことは指摘しなければならないが。

 メジャー資本と何とか妥協しながら、アメリカ黒人の「現実」をある種の明るさの中でなぞったような作品が、30年以上経った今も、決して現実に追い抜かれていないことの空しさ。本作の緊張感は、何よりもまずこの「皮肉な現在性」によって支えられている。どうにかして過去形にしてあげなくてはならない作品だ。映画としても、もちろん現実としても。

 

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監督:スパイク・リー
原題:Do the Right Thing
劇場公開日:1989年6月30日

 

*1:本田創造『新版 アメリカ黒人の歴史』p.228

*2:上杉忍『アメリカ黒人の歴史』p.167