Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

井上一馬『ブラック・ムービー アメリカ社会と黒人社会』書評|特集「ロング・ホット・サマー」10冊目

 時代の後知恵とはいえ、本書に関しては、ジェンダー、もしくはレイシズムの観点からいくら値引きすべきかという問題がまずあるだろう。

 例えば、エディ・マーフィの個性を評するのに「白人には見られない底抜けの明るさ」などという表現では個人の資質をあまりにも人種なるものに還元させ過ぎだし、アイス・キューブなどの出身である音楽業界を紹介するのに「黒人であることがむしろプラスに作用する」とはほとんど意味不明で、ウィル・スミスのアクションを称賛する上で「比類なき躍動感(中略)こそ、スミスも含めた黒人俳優の最大の魅力なのではないか」とまで言ってしまえば、アメリカ黒人の側からの映画史のはずの本書が、むしろ人種なるものによって規定されている様々なステレオタイプを再生産しているように思えてしまう。

 人の見た目に向けられた言葉のセレクトもかなり不注意で、読んでいて安心できない。さらには、アメリカ黒人の日常生活を形容するのに「男と女の恋があり愛があり、結婚があり離婚があって、女には、男に対する不満があるのである」と言われてしまっては、いったいアメリカ黒人史においてディスコやハウス・ミュージックの歴史とは何だったのだろうかと黙り込まざるを得ない。

 

 では逆に、こうした点をすべてすっ飛ばしたときに何が残るかと言えば、本書はその目論見どおり、「ブラック・ムービー」の歴史をコンパクトにまとめ、その変遷がアメリカ黒人の歴史と照合させながら理解できる一冊である。そういう意味では極めて新書的な構成で、大きな流れを知識としてインプットできるのはありがたいし、索引がないことを除けば実用という点で不満はない。

 が、同時に、決してそれ以上でもそれ以下でもない本だという気持ちも残る。作り込まれた年表を逐一音読されているような、どこか物足りない気にさせられる。それは冒頭に書いたような「政治的正しさ」に照らした瑕疵のせいだけではないだろう。

 

 そう、答えは極めてシンプルで、ここでは「映画」そのものがほとんど語られないのである。映画の本なのに、映画が語られない。この点をどこまで擁護できるかというのは、かなり根本的な問題である。

 ある映画を、監督やプロデューサー、出演している俳優の肌の色や出身階層だけで記述可能ならば、なんと寂しいことだろう。たしかに勉強にはなるが、映画を観たい気持ちにはならない、不思議なくらい非映画的な一冊だ。

 

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著者:井上一馬
出版社:講談社講談社現代新書
初版刊行日:1998年11月20日