Trash and No Star

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村上春樹『1973年のピンボール』書評|でも過ぎてしまえばみんな夢みたいだ

 「この程度のもので文学と思ってもらっては困る」。著者のデビュー作『風の歌を聴け』を評して、ある高名な文芸批評家が放った言葉だそうだ。それが誰だったのかはあまり興味もないので調べていないが、ともかく著者は、その酷評にまったく反撥も感じず、腹も立たなかったのだという。

 それもそうだろう、『職業としての小説家』を読めば分かるとおり、それは書斎など持たないジャズ喫茶の店主が真夜中の台所で人知れずしたためた、「書いていて楽しければそれでいいじゃないか」という態度の「キッチン・テーブル小説」だったのだから。著者の言葉を借りれば、それはどう見ても「すかして」いた。

 実際、当時の著者に文学業界における野望もなければ、失うものも何もなかった。そんなものあるはずもない。村上春樹は文学界の外側から彗星のようにやってきた存在だったのだ。

 

 とはいえ、本作『1973年のピンボール』を改めて読み直してみると、前作『風の歌を聴け』ほどすかした作品だとは思わなかった。真面目というか、暗くて重いのだ。

 別にデビュー作への攻撃を気にしたものではないだろうし、著者が「今ある文体をできるだけ重くすることなく、小説自体を深く重いものにしていきたい」と新たなレベルを模索し始めたのは次の長編『羊をめぐる冒険』からだというから、同じことを繰り返すだけの小説は絶対書かないという気合のようなものは伝わってくるものの、何かを劇的に変えようとした作品ではないはずだ。

 そもそも、1970年の夏を描いたデビュー作の登場人物たちをそのまま引き継ぎ、物語前夜である1969年の「僕」が味わうことになる失望感や、1970年のあの夢のような夏が終わり、地元から大学へ戻った「僕」と、大学をさっぱりと辞めた「鼠」の後日談(1973年9月から11月まで)を描いた兄弟のような作品であることは間違いない。

 だが、デビュー作にあったポップな感傷は色あせ、「僕」や「鼠」と同じく3年分だけ年を取り、彼らの人生も少しだけ取り返しのつかないものへと変わっている。夏の夢は終わり、「暖かい夢の名残りも、まるで細い川筋のように秋の砂地の底に跡形もなく吸い込まれていった」。あるいは、もうとっくの昔に消え去っていたことに、今ようやく気が付いただけなのかもしれないが。

 

 とにかく、いつまでも同じようにはいられない。「僕」も、「鼠」も、そして彼らを台所のテーブルから動かしていた著者も。さもなくば、死んだ夢の墓場で生き続けるほかないのだから。その内省や覚悟のようなものが、著者が思っていたよりも文体から「軽さ」を奪っているように思う。不必要に「膨らませた」と思われるような箇所も(主に序盤に)多く、テンポもそれほど良くない。

 特に、冒頭の「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」という回想とそれに伴う一連の逸話が、その後これといった演出効果を上げているとは思えなかったし、長編の書き出しとしては「外して」しまっている印象を受けた。デビュー作には、脈絡のない流れの中にも必然性のようなものがあったが、本作では全体がいささかチグハグして感じられる。

 

 逆に、構造的な部分で印象に残るのは、のちの村上春樹作品では定番となる複数の視点を順番に入れ替えていくジグザグ進行であり、前作までは分かち難く結びついていた「僕」と「鼠」の物語は、奇数の章と偶数の章とで(少なくとも途中までは)完全に分けられ、交わることはない。実際、この時彼らは700キロも離れた場所に住んでいて、互いに向き合うべき問題も全く違う性質のものになっている。この距離感のあるタッチ自体が彼らの孤独を深める演出になっている。

 また、その後の著者が向き合うことになる主題を考えると、この時点ですでに「交信不可能な悪」のような存在を視野に入れているのも興味深かった。「でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ」。このジェイの台詞は、村上春樹の「すかした」作品世界が、現実の世界とつながっていることを控えめに強調している。

 

 繰り返しになってしまうが、この『1973年のピンボール』は、デビュー作ほどの初期衝動はなく、かといってその後の長編ほどのスケール感もない、著者のキャリアの中では通過点のような作品だとは思う。それでも、この2作に一貫して流れるのは、著者の愛する『グレート・ギャツビー』のあのほろ苦いエンディングのような喪失感と、それをどうにか受け入れていく「僕」たちの姿だ。

 ただ通り過ぎていく時間を惜しみ、甘い夏の夢を断ち切り、それをただ眺めていることしかできなかった無口な少年は、都市生活者となって仕事を持ち、取り返しのつかない人生の分岐点を通過したもう一人の少年は、古臭いアメリカン・ポップスが聴こえないどこか遠くの街へと旅立っていく。彼らを導いていた微かな予感は、もうどこにもない。

 あるいは彼らの新しい決意も、結局はあてのない漂流として終わってしまうものかもしれない。問題は何ひとつ解決せず、事態は全く同じ、ということになるかもしれない。でも、それがなんだというのだろう。すべてはただ通り過ぎていく。そして、最後は「みんな夢みたいだ」なんて思うのだろう。それを人は人生と呼んでいる、ただそれだけのことだ。

 実際のところ、「この程度」では文学ではないというなら、別にそれでいいと思う。文学と呼ぶには値しない、このすかした「文学風の散文」でしか描けないものが、確かにあったと思うから。

 

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著者:村上春樹
出版社:講談社講談社文庫〕
初版刊行日:2004年11月15日