The Bookend

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

村上春樹『職業としての小説家』書評|「創作」をいったん「作業」にすること

 ただ通り過ぎていく時間、取り返しのつかない甘い夏の夢、それをただ眺めていることしかできない無口な少年、ビールと煙草、冷たいワイン、古臭いアメリカン・ポップス、そして微かな予感――。村上春樹のすべてが詰まったデビュー作、『風の歌を聴け』を久しぶりに読んだ。学生時代に戻ったような気分で、ほぼ一晩で読み切ってしまった。

 久しぶりというのもあっただろうし、村上春樹が小説家になった経緯や、小説家で「あり続けること」について語り下ろした疑似講演録『職業としての小説家』から続けて読んだというのもあっただろうが、とにかく新鮮で、目の前に果てしない草原が広がっていくような読書体験だった。

 もっと自由でいいのだと思えたし、もっと自由であるべきなのだと思えた。そんな気分にさせてくれる本はそう多くはない。

 

 Wikipediaにも載っているかもしれないが、一応、繰り返しておくと、『風の歌を聴け』は、1978年の神宮球場で、ヤクルト・スワローズの一番打者=デイブ・ヒルトンが、1回裏の初球を二塁打にしなければ書かれなかったかもしれない作品だ。

 そこで啓示を受けた著者は、試合の帰りに新宿で原稿用紙と万年筆を買い、店の仕事(著者は1974年から1981年まで、50年代を専門とするジャズ喫茶を自営していた)を終えてから夜明けまでの数時間を使って執筆を続け、孤独な台所のテーブルで、おおよそ半年をかけて第一稿を仕上げたという。

 

 もちろん、最初からすべてがうまくいったわけではない。同時代の国内純文学をまともに読んだことがなかったという著者は、まったく独自の方法で、自分なりの文体を人知れず追い求めていた。コミットすべき主題も特になく、この時点で「これはもう、何も書くことがないということを書くしかない」とまで考えていたという。

 ライトな文体につい高を括ってしまいそうになるが、極めて限定された環境の中で、限りなく批評的な自己意識の中で、『風の歌を聴け』は書かれたことになる。おまけに構成もものすごい。並みの作家なら(少なくとも自分が同じ立場だったら)28章目の「街について話す」から小説を始めるだろうし、終わりだって38章目を選ぶだろう。

 だが、どこか大きな力に導かれたみたいに、そうした平凡な作品にはならなかった。先頭打者が放つ鮮烈な二塁打のような文体と、職人的にストイックな果てしなき文章調整(とんかち仕事)のたまものとして、『風の歌を聴け』は現在の形に完成し、その後の「小説家・村上春樹」があるのだ。初めて知るその歴史の厚みに圧倒された。

 小説の正しい評価をめぐって、著者はこう語っている。「時間によってしか証明されないことが、この世にはたくさんあります」――まったくそのとおりだと思う。

 

 さて。読後の興奮のまま書いているのでつい大きな場所に来てしまったが、今回『職業としての小説家』を改めて読んだのは、そのビジネス・自己啓発的なツイートも参考になる『現代思想入門』の千葉雅也氏が、「地に足の着いた仕事論としてすばらしい」とつぶやいていたのがずっと印象に残っていたからである。

 実際、この本は「僕も昔は大変だった」という単なる回想録ではなく、プロ作家ならではの実際的な内容を多く含んでいて、その中のいくつかのポイントは、作家とまでいかなくともブログやnoteで何かしら文章を書いている人や、文章に限らず何かしらの創作を行っている人、あるいはビジネス・パーソンが日々のライフハックに転用することも可能だろうと思う。

 自分がもっとも驚かされたのは、「小説が書けなくなるスランプの時期を一度も経験していません」という言葉で、なるほど、創作モードに乗り切れない期間は無理をせず、技術的な作業として処理可能な翻訳の作業に充てているという。

 それは、自分のイマジネーションが実生活の中での「記憶」の堆積に由来しているという自覚があるからで、短期的には停滞に見えても、あえてインプットとアウトプットのバランスを自己管理することによって生産性の質を保っている、ということなのだと思う。

 

 また、一度「創作モード」に入ったならば、気持ちが乗ろうが乗るまいが、「一日10枚」という執筆ペースを機械的に保つのだという。「創作」をいったん「作業」にしてしまう、ということなのだと理解した。それは孤独なマラソンランナーのようであり、実際、著者はよく知られたとおり、長編小説を書くフィジカルを維持するためにランニングを続けている。

 そしてそんな作業を半年ほど続けると、『海辺のカフカ』の第一稿くらいの量になるという。それを1週間ほど寝かせてから、全体の論理展開などをチェックし、冒頭から全面的に書き直す。さらに全体から細部へと視点を移しながら、そういった書き直しを何度か繰り返し、あるタイミングで1ヵ月ほど「養生」した後に、また細部の書き直しを新しい目線で徹底的に行うという。

 すでに気が遠くなるような作業量だが、やがて「これ以上書き直すと、かえってまずいことになるかもしれない」という微妙なポイントがやってくるという。長編小説の中でコンマをひとつ、入れるか入れないか、というところにまで至った段階のようだが、感銘を受けたのは、「その時点でのベストを自分は尽くせたのか」という物差しで自分の文章を点検する姿勢だ。

 それは一見、当たり前のことではあるし、古臭い根性論のようにも思えるが、しかし、いったいそれ以外に何があるというのだろう。それに著者は、ただ闇雲に頑張る、という袋小路をシステマティックに回避できるよう、自分にさまざまなルーティンを課している。繰り返すが、作家ないし作家志望の読者でなくとも、いろいろと参考になるところがあると思う。大事なのは持続である。

 

 もちろん、こうした徹底を実現できるだけの自由をすべての作家やビジネス・パーソンが確保できるわけではないだろう。著者も言うように、これは極めて個人的な人生の達成でもあるからだ。

 だが、本書に記録された著者の並々ならぬ努力や、人生を賭けた追い込み――著者は「橋を焼く」と表現している――の内実を知ると、女性の描写に難がある大衆作家だと腐す前に、払うべき敬意がたくさんあるのだということを思い知った。

 

 「とにかく一度でいいから、持てる力をそっくり振り絞って小説を書いてみたかった」というのは、著者が自分にとっての橋を(7年続けたジャズ喫茶を)焼いた際の心境である。それは「駄目なら駄目でしょうがない。また最初からやり直せばいいじゃないか」と続く。

 「啓示」や「大きな力」などという劇的な言葉を先ほど使ったが、著者の人生を導いたのは、他ならぬ著者自身なのだということがよく分かった。シンプルに、自分の人生に対してただ忠実だった、ということなのだろう。村上春樹が苦手だという人は、小説本体の前にこちらを読むと作品の印象がぐっと違ってくるかもしれない。

 

******

著者:村上春樹
出版社:新潮社〔新潮文庫
初版刊行日:2015年10月1日