The Bookend

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スコット・フィッツジェラルド『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』書評|まずは貴重な訳出に感謝を

 2009年刊行。デビッド・フィンチャーによる表題作の映画化にあわせた出版ではあるが、山っ気はなく、あとがきにもあるように、「いままで日本であまり語られてこなかった、ミステリーやファンタジーにおけるフィッツジェラルドの作品をまとめられないか」という誠実な問題意識に基づき、それまで未訳だった(あるいは2009年の時点で翻訳を入手することが困難になっていた)短編が7作も訳出されている。

 それだけでも、これからフィッツジェラルドの短編小説を追いかけようと思っている人には必携の一冊になるだろう。少なくとも日本語圏において、フィッツジェラルドの短編の扱いに関しては、何よりも「ダブり」がネックになっているからである。『夜はやさし』と同じく、エドワード・ホッパーの油絵でシックにまとめた装丁も美しく、いかなる意味においてもまずは「買い」の一冊である。

 

 一方、肝心の収録作の方はどうかと言うと、正直な話、私には「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」がさしたる傑作には思えなかったことを最初に断っておきたい。

 「ある男が70歳ほどの老人として生まれ、そこから歳を取るたびに若返っていく」という、かの有名な設定ばかりが先走っているように思えて、文学的な深まりはほとんど感じられなかったのだ。彼の父親も、妻も、息子も、「こういう不思議な人が身近にいたら、まあこうなるっすよね」という至極あたり前の反応ばかり示すので、わざわざこのSF的設定を持ち出してまで何を描きたかったのか、ハッキリとしないのである。

 恥ずかしながら映画の方は観ていないのだが、これで165分(!)を使うのなら、妻よりも大幅に若くなってしまった大学時代に運命の大恋愛を描くとか、紋切り型のメロドラマであれ何であれ、それなりにエッセンスを足さないと厳しい気がした。

 

 このほか、デビュー前の習作ミステリー「レイモンドの謎」や、犬の視点から物語が語られるキャリア後期の「モコモコの朝」などもユニークだが、フィッツジェラルド的世界観を思いっきり堪能するなら、1929年の「最後の美女」は必読だろう。フィッツジェラルドの個人史に照らせば、これまた「自伝的小説」と呼ばれ得るだろうが、若き米兵たちが、配属になった基地の街で地元の女子たちと恋のから騒ぎに明け暮れる、お馴染みの物語である。

 ハーバード大学卒業の「わたし」と、軍の同僚が恋人候補として熱を上げていた南部美人、アイリー・カルホーンとの出会いは、もしかしたら運命的なものだったかもしれない。だが、同僚のことを思い、友達以上・恋人未満の距離を紳士的に保つうちに、そうした可能性は消え去ってしまった。それが「わたし」の人生にとっていい事だったのかは分からない。それを確かめるべく、思い切って最後の「賭け」に出るのだが・・・。

 いかにも数日で書き上げられた作品、といった雰囲気が漂ってはいるが、「失ったものを取り戻そうとして、さらに多くのものを失ってしまう」という、フィッツジェラルドの典型的パターンによりビターに仕上げられた名作である。「アメリカ南部」というものが、フィッツジェラルドの中でいかに象徴的な場所なのかがよく伝わってくる。書店にふらっと行って買える本の中では本書が唯一の収録先であり、強くおすすめしておきたい。

 

 このほか、珍しさという点では1926年の「ダンス・パーティの惨劇」も見逃せない。ニューヨーク生まれの「わたし」の回想録として描かれる、ある報われない恋と殺人事件のショート・ストーリーなのだが、調べた限り、絶版本も含めて本作以外での訳出はなく、なるほど、フィッツジェラルドにはこういう一面もあったのだと、訳者のセレクトに納得させられる。

 ここでも南部は、ある特別な、象徴的な意味を持たされているが、基本はいつもの通り、若者たちが演ずる取った、取られたの恋のから騒ぎであり、デビュー前の習作「レイモンドの謎」を思い出させるミステリー要素も適度なスパイスになっている。その分、登場人物たちの個別の描写はいささか物足りなく、小説というよりは、映画のシナリオに向いているようなエンタメ作品である。

 

 もうひとつの傑作「異邦人」については・・・・・・またどこかで書く機会があるだろう。全体的には、読む前から決まり切っているような感想しか出てこなかったけれども、フィッツジェラルドの翻訳全体を前進させる貴重な一冊だ。同じようなコンセプトであと3冊くらい出してもらいたい。

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著者:スコット・フィッツジェラルド
訳者:永山篤一
出版社:角川書店〔角川文庫〕
初版刊行日:2009年1月25日