Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

岸政彦『リリアン』書評|この街と私のあいだには、互いに与えあうべきものはもう何もない

 岸政彦の小説には鉤括弧がない。もしくは、ないことの方が多い。地の文と会話との境界は限りなく曖昧だ。会話の途中の改行も、人物の入れ替わりを必ずしも意味しない。句読点すら、あったりなかったりする。

 だが、著者にとっては何の疑問もなく、ごく自然な流れで一気に書いたのではないかと思うほど、それらの使い分けには淀みがない。あまりにも淀みがないので、逆に何の意味もないのではないかと思い始めていた。

 ところが、いくつもの孤独な夜を分け合いながら、気まずい別れ方をしたままでいた男女が久しぶりの再会を果たす夜、鉤括弧が二人の会話をはっきりと区切る表題作「リリアン」を読んで、二人の言葉がものすごく「遠く」感じた。

 映画的な、あまりに映画的な演出。『図書室』の時にも書いたが、小説として書かれた映画みたいだ。

 

 ひとつになりそうでなれない、人と人。あるいは、人と街。俺と大阪。俺とジャズ。そういったものがここでも描かれている。短編「大阪の西は全部海」に出てくる、高い場所から街を眺め、その正体を見てしまう描写が思い出させるのは、スコット・フィッツジェラルドのNY回顧録マイ・ロスト・シティー」だ。

 「この都市と私のあいだには互いに与えあうべきものはもう何もない*1」――著者が描く人々は、皆そのような感覚で生きている。同時に、だからと言って大阪という街から離れることもできずにいる。私の故郷、大阪。そして、私の失われた街、大阪。この街と私のあいだには、互いに与えあうべきものはもう何もない。

 それでも、誰かと、この街で生きるということ。

 

 こうではない人生も、どこかにあったのかもしれない。でも今は、この人生の中をただ進むしかない。この波に乗り、流され、どこかへ行きつくまで。そういう投げやりのような、諦めのような、覚悟のような感覚。街を海と見なし、そこに身を委ねるような感覚が、「ビニール傘」から本作まで、ずっと続いているように思った。

 著者のプロフィールを多少なりとも知っている人ならば、著者にとっての「あったかもしれないもう一つの人生」のようだと言うだろう。そしてその人生は、実際にどこかで誰かによって生きられているのかもしれず、きっとどこにも隠されていないのに、私はそのことを全然知らない。

 

 岸政彦の書く小説は、互いにどこかでつながっている。すべての作品を並べると、きっとそれがひとつの街みたいになるのだろう。

 

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著者:岸政彦
出版社:新潮社
初版刊行日:2021年2月25日