Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

S.マーフィ重松『アメラジアンの子供たち』書評|それでも一緒くたにできないもの

 アメリカ系沖縄人を含む、「アメラジアン(AmerAsian)」を象徴的に語らないこと。というかそれ以前に、彼ら・彼女らの存在や、経験を、一緒くたにしないこと。と同時に、「アジア国籍を持つ母親」と「アメリカ国籍を持つ父親(多くの場合、軍関係者)」との間に生まれた存在として、共有可能なものがあるなら、それを言語化すること。

 矛盾するような方向性だが、しかし自身も一人の「当事者」である著者が本書で目指すのは、ある意味ではアメラジアン像の解体であり、再構築でもある。全体の構成が必ずしも構造的になっておらず、もう少し「モレなく、ダブりなく」に整理して欲しかったという思いは拭えないが、WOWOWドラマ『フェンス』の副読本としては必読だと思った。

 

 「アメラジアン」という呼び方は、中国で育てられたアメリカ人ノーベル賞作家、パール・バックが創り出したものだそうだ。本書ではこの言葉を限りなく広い意味に拡張して使っているが、それによって表現することのできる痛みがある一方で、やはり、必要以上に強まってしまうステレオタイプスティグマもあるなと思った。それがある種の迷い、ためらいにつながり、本全体の構成を乱しているのだと思う。

 なぜ、こうしたジレンマが生じるのか。言うまでもなく、人が多様であり、人生が多様であるからだ。機械的な列挙で気が引けるが、見た目が白人系なのか/黒人系なのか、現地の公用語が話せるのか/話せないのか、英語が話せるのか/話せないのか、父親がいるのか/いないのか、そもそも米軍基地が近くにある街なのかどうなのかなど、いくつかの条件によって、あるいはその交差の仕方によって、その経験は大きく異なるようだ。

 事実、ドラマ『フェンス』でも、それまで異質化されることによって傷つけられてきた大嶺桜が、両親ともにアジア系である友人・キーから同じハーフとして一緒くたにされそうになった際、「同じじゃないよ、あなたは日本人に見えるんだから」とすぐさま反論する場面があった。あるいは、米兵と婚約中のミユからバイレイシャルの先輩扱いされるや否や、「白人とのハーフならチヤホヤされるから大丈夫さあ」と距離を置く場面。

 本書にも書かれているとおり、アメラジアンの存在や経験は、それ自体、「沖縄人の加害者的な側面」を浮き彫りにするものでもあるのだろう。特に、ブラックミックスとして日常的なマイクロアグレッションに悩まされる桜は、「マイノリティ集団にとってのさらなる周辺的存在」として、あるいはマイク・モラスキーが言うところの「もっとも退けられた存在」として、チャンプルー文化などと喧伝される「沖縄的なるもの」を相対化する存在として描かれていた。

 

 東京生まれの著者が沖縄にもっとも大きな関心を寄せるのは、このように、そこが「日本において、アメラジアンの問題がもっとも生きた問題である」場所だと考えたからだ。実際、コザの「特飲街」でも厳格に持ち込まれていたという黒人差別や、米兵男性による性犯罪・性暴力・性支配の歴史や、ハーフ差別といった問題が同時に露呈してしまう環境が沖縄にはあったのであり、それを基地問題と切り離して考えることは不可能だろう。

 ある街に大きな軍事基地ができれば、多くの兵隊がやってくる。当然、そのニーズに応じてさまざまな仕事が発生するわけだが、土地の産業や農業が破壊されたあととあっては、『基地で働く』で記録されたような基地の中での仕事はもちろんのこと、さまざまなサービス業――店員、針子、ウェイトレス、家政婦、秘書、ホステス、売春婦――も、生きるための選択だった。それが戦後の沖縄だった。

 繰り返すが、そこで生じた人と人の出会いは多様であったはずだ。にもかかわらず、母親や子どもたちを見捨てた父親(米軍)の責任は問われぬまま、同胞からは「戦争を鮮やかに思い出させる存在」として遠ざけられ、時には極端なステレオタイプ――セックス・ワークやレイプと関連付ける思い込み――にさらされ、アメリカという占領者からは、世界平和のために必要な「不幸だがさして重要でもない犠牲」と考えられた。

 

 そうした「アメリカ軍とアジアのもつれの名残」としてではなく、いま、この時を生きる一人の人間として。著者は沖縄以外にも、フィリピンや、韓国、タイ、ベトナムなどアジア各地を旅し、一人でも多くの当事者に出会い、生身の声を集めようとする。それらは、「どこにも完全には所属できない」という宙づりの感覚を共有しつつも、実にさまざまな表情で読者を揺さぶるだろう。 

 きっと大事なのは、『「ハーフ」ってなんだろう?』で下地ローレンス吉孝氏が書いていたように、「相手の人権を尊重して、一人一人の声を聞き、社会の構造について考え」ることなのだ。その地道な努力を怠り、物珍しい言葉で何かを一括りに理解しようとすることは、結局はラベリングの再生産に加担することであり、スティグマの再強化である。

 

 結局、この原稿自体も堂々巡りのような内容になってしまったが、かと言って、批評的な出口にも思える「沖縄内部の差別」をただ指摘し、糾弾すれば何かが解決する問題だとも思えなかった。初版発行の2002年以降、安室奈美恵は本土芸能界も含めて史上最大規模のポップスターとなったし、玉城デニー沖縄県知事となった。そんな時代だからこそ改めて知っておきたい、複雑で多様な現実がここに。

 

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著者:S.マーフィ重松
訳者:坂井純子
出版社:集英社集英社新書
初版刊行日:2002年5月22日