Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

松本佳奈監督・野木亜紀子脚本 連続ドラマW 『フェンス』感想|「女」というスティグマ、「女」という紐帯


(画像は公式Twitterから借用)

 

 女が一人、タクシーを降りてコザの街に降り立つ。少し前に、東京からやってきて、広大な米軍基地とオスプレイの轟音に迎えられたばかりだ。

 ある目的地に向かって歩き出す彼女を、カメラはまず頭上から視界の端に収め、次のカットではカメラが追い抜かれる形で前進移動する彼女の後姿をさりげなく捉えると、すぐさま「アメリカ」と共存してきた街の雰囲気を無言で伝えるロングショットの印象的な横移動に切り替わり、最後は沖縄の光線に目を細める正面からの構図で一連のシークエンスが引き取られる。

 実に滑らかで、贅沢な、逆に言えば手際よく「物語」を進めるためだけならばまったく不要とも言えるこうした「映画的な」画面の推移を見ると、人気脚本家――らしい、としか国内芸能に疎い自分は言えないけれど――ばかりが注目されているかに見えるこのドラマも、様々なプロフェッショナルがそれぞれの力を尽くして作った作品なのだろうと察しがつく。

 

 しかしながら、こうした映画的な感性は作品全体として十分には発揮されておらず、その点は残念に思った。特に、旅費の支給を渋る雑誌編集部に――女はある事件の取材で沖縄に派遣されている――業を煮やし、バイク移動に切り替えるという仕掛けをわざわざ用意しているにも関わらず、なにかの手違いだろうか、その走行シーンはどれも本気では撮られておらず、物語の推移のために必要な単なる「移動」としか扱われていない。

 以降、画面は乱れのない構図によって律儀に、あるいは忙しなく移り変わり、極めて職人的な編集で事態の推移は語られ、終盤に近づけば近づくほど「物語」重視の態度は決定的なものとなる。「言葉の力」によって人が生き方を変えていくというストーリーの構成上、やむを得ない部分もあるし、本作を理解する上で必要になる沖縄の背景に関しての解説も兼ねている、という事情を差っ引いても、「言葉=セリフ」の多さが目立ってきてしまうのだ。

 

 個人的な趣味で言えば、「マッチングアプリが悪用され、女の子たちが計画的な連続レイプ犯の被害にあっている」という状況を逆手に取り、せめて最後の1話分くらいが、クエンティン・タランティーノ監督のあの痛快な『デス・プルーフ in グラインドハウス』のような、立場逆転の「おっさん狩り」に転じても面白いのではないかと思いながら観ていたが、言うまでもなく、そんな映画みたいな破綻は最後まで訪れなかった。

 考えてみれば当たり前のことで、沖縄において「米兵による少女暴行事件」はあまりにも痛ましい、現実の記憶である。エンターテインメント作品と言えど、そこを飛躍してカタルシスにつなげることはできなかった、ということなのだろう。本作で描かれる性暴力は、女たちをアメリカに奪われた「男たち」の屈辱としてではなく、あくまで「女たち」の身体と精神を傷つけ、尊厳を根こそぎ奪っていく現実の痛みとして描かれているのだ。

 そう、本作は女たちの「連帯」と「闘い」の物語であり、長い時間をかけた「回復」と「再生」の物語である。とても堅実で、誠実な作品だと思った。

 

 

 少し、物語の具体的な内容に触れる。

 

 キーと呼ばれる東京から来たライターの女(松岡茉優)が追っているのは、「米兵の犯行と疑われる連続レイプ事件」である。その被害者の一人・大嶺桜(宮本エリアナ)が、ある筋から被害の真実性を疑われているという。彼女の祖母(吉田妙子)が、沖縄戦の生存者であり、基地反対派として活動する沖縄県内でも有名な存在だからだ。

 しかも、桜は黒人系の米軍兵を父に、沖縄女性を母に持つバイレイシャル――海兵隊員・ジェイの婚約者であるミユが劇中で用いる表現である――もしくは「アメラジアン(AmerAsian)」であり、おまけに、当日は米軍男性が多く集まる盛り場で一人でいるところを被害にあっていた。

 自ら好き好んで相手に近寄り、そんなところで遊んでいたのだから仕方がない、という「アメジョ」への軽視や蔑視――劇中でも指摘があるが、フェミニズムの理論で言えば女たちを奪われたことの「嫉妬」――までもがそこに重なる。憶測やデマはあっという間に拡散され、女たちの痛みはどんどん値引きされていく。

 

 社会が正しくないから、性暴力の被害者が正しい行動を取れない。本作はそうした苦い現実を受け止めつつ、同時に、その厄介な構図をドラマの批評性へと変えてもいる。

 同じ性暴力の被害であっても、目取真俊が『沖縄「戦後」ゼロ年』で書いていたように、抗議のための県民大会に85,000人が集まった被害もあれば、それほどの憤激を呼び起こさなかった被害もあったし、極めてローカルなレベルで、「先生達は北部の少女のことで騒いでいるけど、近くの学校でこういうことがあったの知らないでしょう」という語られ方しかされない、公式には表に出なかった被害もおそらくたくさんあった。

 本作が追及するのは、被害者がどこかで値踏みされ、純粋無垢な「モデル被害者」なのかどうかを誰かが選別しているのではないか、という問題である。こうした力学を「女性に純潔を要求する家父長制パラダイム」と呼んだのは上野千鶴子だが、「『モデル被害者』から逸脱した人々が名のりをあげにくくなるという政治的効果がある」という状況が本作でも再現されると同時に、その言いだしにくさが「真の被害者は誰か」というサスペンスにも利用されており、なるほど脚本はよく練られている。

 

 さらには、人種差別の問題が主題の一つになっていることも本作の大きな特徴だろう。特に、アメラジアンの存在が大きくフィーチャーされているのだが、目取真俊が同じく『沖縄「戦後」ゼロ年』で「アメラジアンの問題というのは、そんな生やさしいものではなかったはずです」と書いていたように、ここでの桜はチャンプルー文化的な「融和」ではなく、父親と母親の「別れ」の象徴として描かれている。それをスティグマと呼ばずに何と呼ぼうか。

 いや、そんな文学的な表現はやめよう。「BLMにまったく共感できなかった」と発言する桜が、米兵と婚約中のミユに「白人とのハーフならチヤホヤされるから大丈夫さあ」と距離を置いたり、「同じハーフじゃん」と同一化してくるアジア系のハーフの子に「同じじゃないよ。あなたは日本人に見えるんだから」とすぐさま言い返すさまは、彼女が経験してきた現実の差別がいかに明確で強烈だったかを如実に物語っているのだから。

 実際、桜は初対面のキーから英語で話しかけられるわけだし、今でも市場に行けばおばさんたちからの「興味本位の」質問に日々傷つけられている。そのような日常生活の中でのマイクロアグレッションは数えきれないほどだろうし、沖縄の基地反対運動の中でさえ人種差別を経験していて、「チャンプルー文化」と呼ばれる島の陰で、性的にも人種的にも基地問題的にも「純潔」を求めてきた沖縄の内なる暴力を一身に告発する存在として描かれているのだ。

 

 こうした問題の複合性や複雑性は、アケミ・ジョンソンの名著『アメリカンビレッジの夜』――副題は、「基地の町・沖縄に生きる女たち」だ――を彷彿とさせる。本作『フェンス』が帯びることになる批評性も、同書が目指したように、「単純化された幻想ではなく、厄介な現実を」というところにあると言えるだろう。

 一方、「女好き」な男どもによる女性差別ミソジニー、そしてその発露としての性暴力、その後のPTSDの問題。さらには、政治から経済にまで及ぶ、本土による沖縄の構造的な差別、支配、利用、もしくはそれを支える多くの人々の無関心。そして日米地位協定や、辺野古普天間を中心とする基地問題など、あまりにも多くの題材に手を出している、という印象は拭えない。

 だが、サスペンスとジャーナリズムとエンターテインメントをごちゃ混ぜにし、これらを互いに関連する要素としてつなぎ合わせ、わずか5時間で一気に語ってみせる職人技に悪意は感じなかった。

 

 もちろん、悪意があるとかないとかの問題ではないのだろう。それがエンタメであろうと、シリアスドラマであろうと、外部の人間が沖縄を題材として利用し、消費している時点で、それはみな同じ暴力だ。その意味で、本作も沖縄を利用し、ドラマのネタとして消費している、という批判はどうやったって免れない。

 にもかかわらず、この『フェンス』というエンタメ・ドラマから自分なりに誠実さを感じたとすれば、それは本作が、「シリアスに同化した沖縄目線」から本土を批判的に見るのではなく、あくまで「本土目線のドラマ」として自覚的に作られており、物語を進める視点として「本土から沖縄に派遣された雑誌ライター」という立場を採用しているからだ。

 実際、キーは当初、マジョリティー側の写し絵としてマジョリティーたる視聴者をあまりにも苛立たせるし、事態を強引に打開していこうとするさまは視聴者をハラハラさせもすればイライラさせもするだろう。彼女の体現するこうした「悪意のない暴力性」は、むしろこの『フェンス』というドラマの暴力性そのものであり、本作は彼女を主役にすることでむしろ、自らの暴力性に最後まで向き合っているのだと思う。

 

 結局、象徴的なレベルでの感想がほとんどになってしまったが、このドラマが最終話で映画的な輝きを取り戻すことには是非とも触れておきたい。

 ある人物との出会いをきっかけに、桜が陰ながら毎朝続けていた髪の毛のアイロンがけ――どうして自分の髪の毛は「みんな」のものとは違うのだろう、と幼いころから彼女は思っていた――をやめるのだが、ありのままの自分で生きることを静かに決意した彼女が、自分でも戸惑うほど自信にあふれている新しい姿に慣れずに、ちょっとしたガラスの反射などを利用して見え方をしきりに気にしてしまう素振りや、解き放たれた彼女の姿を見た祖母の浮かべる一瞬の微笑みが何とも素晴らしい。

 セリフが過多になりつつあった中でひと際輝く「映画的な」演出である。それは、彼女を苦しめてきたステレオタイプの側から見れば、「解放」もしくは「反抗」にさえ見えたかもしれないが、言うまでもなく彼女は自分をただ取り返しただけだ。

 

 そろそろ無理やりにでもまとめよう。本作での「女たち」は、誰しもが何らかの苦難を「生き延びたもの」である。あえて詳細には語らなかったが、一見軽薄に見えるキーが生き延びた苦難がどんなものであり、なぜ、ギャラを目当てに乗り込んだはずの沖縄で、米兵を追いかけて基地のゲート前まで必死にバイクを飛ばすのかについては、是非ドラマの中で確かめていただきたい。

 女たちが、ただ「女だから」というだけの理由で軽んじられ、排除され、暴力にさらされていく中で、ならばただ「女だから」というだけの理由で連帯し、闘ってやろうというのがこの『フェンス』というドラマである。フェンスに隔てられたこちら側の世界で行われるその連帯は、むしろ彼女たちを越境的な存在に変えていく。

 

 物語の最後、平和の礎や紅型といった「沖縄的なるもの」へのつなぎ方はやや不自然に感じられたが、特に平和祈念公園での一連のシークエンスは、すでに別の場所でも書いたように、「必然的なベタさ」を懸命に表現しようとしたものだと思う。そこで、桜の祖母から沖縄戦の記憶が渡される。「あなたたちは生きるんだよ」と。

 みな、それぞれの「戦争」を生き延びてきたものとして、その言葉を受け取り、いまここにある生を確かめるような束の間の沈黙が訪れる。このドラマが沖縄で撮られなければ描けなかった、素晴らしい沈黙である。

 

 そして、彼女たちの人生は続いていく。また離ればなれになり、フェンスに行く手を阻まれながらも、彼女たちは生き続ける。

 

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監督:松本佳奈
脚本:野木亜紀子
放送開始日:2023年3月19日

 

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