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工藤将亮監督『遠いところ』映画評|いったいこれは誰のための映画なのだろう

 映画館を後にしながら、どうしてこの映画はこんなにも悲惨でなければならなかったんだろう、と思わずにはいられなかった。悲しかったし、無性に腹が立った。いや、それ以上にただ空しかった。いったいこれは誰のための映画なのだろう。まったく理解ができなかった。

 

 監督のインタビューなどを総合すれば、きっと自分のような、沖縄にとっての観光客に過ぎない人間に向けて作られた告発の映画なのだろう。メインのコピーは「映画、ではなく現実」。広告費捻出のためのクラウドファンディングで使われた煽り文句は「クソッタレな現状に目を背けるな!!!」だ。

 映画ナタリーへのコメントによれば、「メディアが報じる沖縄は連日基地問題のことや防衛のことばかりで、子供の貧困について語られることは多くは」ない、というのが問題意識のようだから、ここで優先されているのはひとまずインプレッションである。様々な問題が沖縄にはあり、とにかくそれを知って欲しいという思いが優先されている。

 

「映画はメディアじゃないんです。人間を描くっていうことです。人間を丁寧に描くことによって社会は見えてくるし、時代が見えてくる。映画は、本当はそうすべきなんです。社会の構造がどうのこうのっていうのはメディアの仕事なんです。」

(慶応塾生新聞「人間を丁寧に描くことで社会は見えてくる  工藤将亮監督に聞く映画への思い」より)

 

 一人の映画好きとして、ここで言わんとしていることは分かるつもりだ。だが、人間を丁寧に描くということは、「クソッタレな現実」を映画の中で再現することなのだろうか。そこが分からない。

 「今も沖縄で続いている現実なので、映画の中で僕が勝手に終わらせることはできなかった」と、工藤監督はある対談の中で話している。いかにも映画的な「オチ」を作らないこと。現実をただ現実として見届けること。それは確かに、一つの映画的誠実さではあるのだろう。

 自分の知る限りで言えば、それはダルデンヌ兄弟の映画を思い出させる。社会の周縁で生きる者たちに降りかかる不条理を淡々と描くリアリズムと、希望を求める観客への容赦ない突き放しによって、現実と映画の境目を限りなくゼロに近づけたベルギーの兄弟だ。

 もっと一般化して言えば、それは2000年代の映画がドキュメンタリーと接近していた流れの中で捉えられる傾向だったのかもしれない。現実の世界で、「映画みたいなこと」は起こらない。だから恣意的に希望を足さないことが、そこでは誠実さたり得たのだろう。しかし、それももう何十年も前の話ではないか。

 

 そう、目を背けたくなるような描写がこれでもかと続く『遠いところ』に強烈な既視感があったとすれば、それは映画の題材が上間陽子の『裸足で逃げる』や目取真俊の『虹の鳥』で描かれた暴力の中を生きる少女たちを連想させるから、ではなく、単に映画と現実との2000年代的な関係性を思い出させたからである。

 もう、こういう映画はいいのではないか。ダルデンヌ兄弟の傑作『ある子供 』が約20年前の作品であり、彼らに対するiPhone世代からの応答とも言えるサフディ兄弟の『神様なんかくそくらえ』でさえもう10年近く前の作品であることを考えると、現実と映画の関係が今なお「ここ」にあっていいのかがそもそも疑問である。

 

「僕は映画というのは、人間を描くものだと思ってるし、芸術の一つです。彼女たちが一生懸命生きていて、すごく美しく見える。彼女の一生懸命な姿がとても綺麗に見えたり、美しく見えたらそれでいい。」

(引用同上

 

 美しく見えたらそれでいい?

 正直、言っていることがよく分からないのだが、もしこの監督が、悲惨な現実を生きる17歳の少女に米軍基地のフェンスの前を走らせ、その数的な変化を――1回目はまだ二人の仲間がいて、2回目はひとりぼっちである――基地から放たれる無機質な光の中で撮ることが「芸術」であり、あるいは夜の街から家族の元へと続く路地裏を歩くところで映画を始め、少女の人生の重大な転換場面でそれを逆方向に繰り返す演出が「芸術」だと思っているのなら、それは大間違いである。

 そんな図式的な演出や、ミュージック・ビデオのような一時的な芸術性のために素材にされた少女たちの絶望が哀れで仕方がない。多用される情緒的なスローモーションからも特段の演出効果は得られておらず、啖呵を切って描こうとした現実を「映画」として昇華できなかったことの誤魔化しにしか感じられなかった。玉城デニー知事の実名を出しながら、新・沖縄振興計画策定の報道に少女の打ちひしがれた姿をオーバーラップさせて、この映画は満足なのだろうか。それで何を描いたことになるのだろう。

 

 少し、物語の具体的な内容に触れる。

 

 映画の主役は、親に見捨てられて生き、15歳で子どもを産んだアオイ(花瀬琴音)だ。「夢は昼職」な一方、日々の「生活!」のために懸命にキャバクラで働くが、一向に働かない夫には口論の度に殴られ、必死に貯めた所持金をすべて奪われるなど、暴力と搾取に囲われた不安定な生活が続いている。やがてトラブルが頻発するようになり、「示談金」という言葉すら知らないまま、暴力沙汰を起こした夫のためにより高額な収入が見込める「援デリ」の世界へと進んでいく。

 「お前に何が分かる」という、アオイが一番言いたかったセリフすら、夫のマサヤに先に言われてしまったら、彼女はいったいどうしたらいいのだろう。持ちうるすべての尊厳を奪われ、破壊され、やがてどうにもならなくなったアオイは、愛する息子とともにどこか「遠いところ」に逃げようとする。いつだったか、もう何十年も前のように感じるある夏の日に、たった一人の親友と分かち合った願いがようやく叶うのだという、混乱し、倒錯した喜びが、死を前にした恐怖とせめぎ合う。

 自分を捨てた親。家族がどういうものかも知らないうちに、自分もまた親になってしまったアオイ。この世界に、自分の居場所はもうどこにもない。わが腕の中の「この子」を除いては。どうしてこんなことになってしまったんだろう。せめて、ちゃんとした「母親」になってみたかった。だが、それももう終わりだ。それを思い知る絶望の中で、彼女は世界から静かに遠ざかっていく。

 

 そんなアオイを最後の最後まで突き放すことが、本当に映画的誠実さなのだろうか。現実にただ追従し、血まみれの絶望を画面いっぱいに垂れ流しにすることが?

 

 確かに、カメラが少女たちの視点に徹底的に没入することによって、米軍基地やその境界線であるフェンスから政治的象徴性を取り払い、芸術的な素材として利用することに成功してはいる。いくつかの場面における彼女たちの無反応ぶりは、彼女たちがいかに暴力に慣れ、基地に慣れ、戦闘機に慣れ、絶望に慣れて生きているのかを表現してはいるだろう。

 しかし繰り返すが、自分はそれが「美しい」とはまったく思えなかった。『遠いところ』のあのラストは、ダルデンヌ兄弟の映画的誠実さというよりは、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』やクリス・ケンティスの『オープン・ウォーター』を思い出させはしなかったか。

 しかも、そんな身も蓋もない「悲惨さ」すら、ある種のサブカル的観点から言えば、映画という「コンテンツ」の中ではごくありふれた、よくある出来事になってしまうのだ。「鬱映画」だの「胸糞系」だの、こうした映画を一括りにする言葉はいくらでもある。そこをどうにか突破するには、とにかく悲惨さをエスカレートさせるしかない。悪循環だと思う。

 

 少なくとも、この『遠いところ』という映画は、そこで一方的に描いた「当事者である少女たち」に向けられた映画ではないのだろう。もしそうであれば、あんな残虐な場面をこれ見よがしに挿入できるはずがない。

 むしろ、執拗に痛めつけられ、ただでさえ限られていた居場所をさらに失っていく「彼女たち」を描きながら、同時に、「彼女たち」の不在を前提に作られた映画でもあるように思えた。なぜならば、皮肉にも本作が描くように、「彼女たち」にはわざわざ2000円を払って、2時間以上の映画を観るあらゆる意味での余裕がないからだ。

 そんな「クソッタレな現状」の中で、しかし彼女たちの現実はもう描かれて「しまって」いる。何を描き、何を描かないか、という点について、「彼女たち」に選択権はないのだ。私はそこが一番の問題に感じた。

 

 工藤監督は、自分にとっての出世作を沖縄でなら撮れるかもしれない、という気持ちを抑えて、もっと真剣に考えるべきだった。

 この作品がただ映画という「サブカル」の中に取り込まれてしまったときに、どのように消費されてしまうのか。そして、これを観るかもしれない「彼女たち」にどのような効果を持ってしまうのか。さらには、映画の冒頭で露悪的に挿入される「沖縄やばくね?」という観光客の言葉が、実際の社会でどのように増幅されてしまうのかを。それこそが、基本的な意味での映画的誠実さではないのだろうか。

 

 「沖縄の現状を伝える本を一通り読んだ」という工藤監督なら読んだかもしれないが、上間陽子の『裸足で逃げる』という本がある。読んだだろうか? もちろん、読んだのだろう。だが、おそらくこの箇所を見落としているか忘れている。ここをゆっくりと、注意深く読まなければ、この本を読んだことにならない、それくらい大事な箇所だと思うのだが。

 上間はこの本のあとがきの中で、なぜ自分が少女たちと複数回会って、なぜ一定の時間をともに過ごし、なぜ「彼女たち」に降りかかった暴力を原稿にし、なぜそれを本人に読んでもらえるようになるまで待つのか、ということについて、こう語っている。

 

起きてしまったことがらがどんなにしんどいものであったとしても、本人がそれをだれかに語り、生きのびてきた自己の物語として了解することに、私は一筋の希望を見い出しているからです。

(上間陽子『裸足で逃げる』より)

 

 私はこの言葉の重さを、この不用意な映画を観ることでようやく知ったと言えるのかもしれない。上間は、自分が聞いた人生や「生活!」のことを、任意に再現していいとは思っていないのではないか。

 逆に言えば、この言葉の裏には、いったいどれだけの「自分のものとは了解できなかった物語」が横たわっているのだろう。それはどれほど孤独で、どれほど痛ましいものだったのだろう。

 

 上間は、同じあとがきの中でこうも言っている。「私は言葉の力を信じています」と。

 工藤監督は、この映画を撮りながら、「映画の力」を信じることができたのだろうか。本当は信じられなかったのではないか。映画がどれだけの力を持ってしまうか、本当は知らないのではないか。それを知り、信じていたら、本当に「彼女たち」をこう撮れただろうか。監督が信じてしまったのは、映画の力ではなく「沖縄の力」だったのではないだろうか。

 帰りの電車で私が思い出していたのは、目取真俊のあの拒絶の言葉だった。

 

 毎日何万人という日本人が沖縄観光にやってくる。米軍基地にしても、後ろめたさや疚しさを覚えない人たちには観光の対象となる。観光客だけではない。反対運動を含めて米軍基地は表現の素材として利用価値が高い。基地のその周辺の風俗、物語性に富んだ沖縄戦後史、日本にはない絵になる風景を求めて、写真家、映像作家、小説家、ノンフィクション作家、劇作家、評論家、研究者その他が日本からやってくる。

 彼らにとって沖縄は素材の宝庫なのだろう。沖縄を扱った作品が作られ、人のいい沖縄人は、沖縄の現状を伝えてくれてありがとう、と感謝し、それらの作品が日本人の良心に訴えて、沖縄への理解が深まり、基地問題が改善されることを期待する。

目取真俊『ヤンバルの深き森と海より』より)

 

 私はこの映画がせめて、どんなに陳腐で安っぽかろうと、誰かにとっての希望であって欲しかった。どんなに「映画みたい」であろうと、誰かの、生き延びた物語であって欲しかった。せめてアオイが、「助けて」と伝えられる相手が一人でも見つけられる物語であって欲しかった。「映画みたいに」美しくなんてなくてもいいから。

 

 それでも、映画『遠いところ』はヒットしているという。沖縄で、あるいは本土でも。まずはインプレッションが必要、という監督の作戦は成功したのだろう。

 だが、結果としてSNSで目につくのは、「いろいろと考えさせられました!」という、何かを受け取ったふりをしておきながら実際は何も言わない思わせぶりのコメントか、「これは沖縄だけの問題ではない!」という一般化の暴力である。アホくさ、と思う。「男を見る目がなさすぎ」とか、「なんで逃げないの」みたいな問題の個人化を図るものも多い。本当にこれが、アオイを突き放してまで呼び起こしたかった反応なのだろうか。

 もちろん、俳優たちの力のこもった演技に罪はない。アオイが、人知れず自分のために闘ってくれた親友と最後の対面をはたすシーンの長回しは息をのんだし、息子(ケンゴ)役の長谷川月起が見せる、どこまでがその場の成り行きで、どこまでが計画された演技なのかが分からないほど繊細な振る舞いも、大人の世界とのコントラストを見事に引き出している。

 

 しかし、だ。それでもなお、私はこれが美しい映画だとは少しも思わなかった。監督が豪語するほど、映画の力を信じた映画だとも思えなかった。上で長々と書いたように、あまりにも多くのものが置き去りにされているように感じたからだ。

 2時間かけてようやく描けるかどうかの希望を見つけ出し、それを作品として昇華してこその「映画」なのではないだろうか。それが達成されていないことよりも、それが最初から目指されていないように思えることが不思議だった。結局のところ、何度考えてみても、こう思わずにはいられない。いったいこれは誰のための映画なのだろう、と。

 

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監督:工藤将亮
劇場公開日:2023年6月9日